BLOGや掲示板で、こちらは誠意を持って対話をしているのに、どうも「対話にならない」という事で、辟易した事ありませんか。
また、せっかく相手の悩みを聞いてあげても、相手がナリスマシで、愉快犯であった、という悔しい思いをしたことはありませんか。 「どういう神経をしているのか?」と訝った経験は、きっとお持ちではないでしょうか。 創価系ブロガーに捧げたい「敵の攻撃に負けない為の5つのコツ」で紹介したように、ネットの世界には、「日常では見たこともないようなおかしな人々」が溢れている、というのが私の印象です。 日常生活では普通であっても、ネットという匿名の世界に浸った時におかしくなる…あたかも、車を運転する時に性格が豹変する人がいるように、ネットという匿名空間の中では、「抑圧された自己」なんかが涌現しやすいのではないでしょうか。 本稿では、そういった人を、仮に「ネットサイコパス」と呼ぶことにしましょう。 一般のサイコパスの特徴などは、簡単に検索できますのでそちらに譲るとして、ここでは「テキストの世界」でそういった人々をどう判断するかについて以下5点にわたって考察したいと思います。 (ちなみに、以前、鯖板で話題にした事もありますが、スコット・ペック著の「平気でうそをつく人たち」という本には、「サイコパス」の精神状態について詳細な研究がありますので、是非おすすめしたいと思います。) 1.サイコパスは、一見「まとも」 まず、意外に思うかも知れませんが、「異常者」というような印象は彼らにはありません。 外見を気にしますので、一見魅力的でさえあります。 従い、ちょっとした「テキストのみ」で相手を見破るのは非常に困難です。 ひとつ手がかりがあるとすれば、「なんとなく賢そうな論調」を常に見にまとっているのではないかと思います。 しかし、注意深く見ていくと、その億には狡猾な本心が潜んでいることが垣間見える事でしょう。 2.サイコパスは、「泥まみれにならない」 彼らは、「他人の痛みを気遣う」「自己反省をする」といった精神が欠落していますから、平気で他人を蹴落とし、自分の体面を保とうとします。 本来なら謝るべき場面で謝らない人物、自己の非を絶対に認めない人物に要注意です。 しかし、彼らは「絶対に謝罪をしない」というわけではありません。逆に、謝罪する事によって自分の株が上がると思う場面では、巧妙に謝るのです。 判断が難しいですが、「泥をかぶらない謝罪なら、場合によってはするが、本当にかっこ悪い状況には自分を陥れない」という事を念頭において下さい。 3.サイコパスは、「嘘つき」であり信頼性に欠ける 発言に矛盾やブレが多い、嘘が疑われる、「自分を棚に上げる」発言が多い、といった人間には要注意です。 もし、掲示板等で活躍しているコテハンであれば、「信頼を勝ち取っているか」に注目してみてください。(ただ注意すべきは、ネット上では「多重ハンドル」等を駆使して、さも多くの人が同意見であるように見せかける事ができる事です。ホスト情報などで判断しようにも、自宅PC、携帯、モバイルPC等からプロバイダを変えてなりすます例もありますから、厄介ではあります。賢く判断するしか無いですね) 4.サイコパスは、「ユーモアセンスに欠ける?」 これは私の経験から言うのですが、サイコパスは、魅力的であろうとする事から、ユーモラスな一面も兼ね備えている事が多いです。しかし、自己中心的であるから、そのユーモアは、真の「面白さ」というよりも、仮想敵などに対する侮蔑や嘲笑といった、嫌味のあるユーモアが多いと思います。 「私にはサイコパスが必要である。なぜなら、最近腰が痛いので・・あ、それはサロンパスか!」みたいな、自分の身を呈して「面白い事を言う」といった行動には出ないわけで…え!あまり面白くない??(°д°;;) ともあれ、彼らには、「情緒」「詩心」「ロマン」が欠けているので、無味乾燥で荒廃した精神という印象を与える人には要注意です。 5.サイコパスは「寄生虫」である サイコパスは、その飽きっぽい性格故に、「姑息」が特徴です。 決して、自分で何かを築きあげる、という甲斐性はありません。 例えば、他人のBLOGを批判するのであれば、まず自分のBLOGを創り上げてからそれを「お手本」として示すべきです。そういった事もせずに、ただ「寄生虫的に」他人の批判ばかりしている輩は、「姑息」であるという事です。(お座なりなBLOGを作って、その責めをかわすという場合もあるでしょうが、そのBLOGが「他人の批判」で凝り固まっているのであれば、「姑息」の域を出ていませんね) 以上のような条件に多く当てはまるような相手は、私の経験上、どんだけ「誠実」に対応しようと、時間のムダです。(ここはテキストの世界。相手の胸ぐらを掴んで、涙ながらに訴える、という事はできないわけです)「住む世界が違う」と認識し、賢く遠ざけ、まともに相手をする事を避けるよう、願ってやみません。 これまでも、多くの先輩方が、多くの時間を浪費してきたのですから(笑) …えっ!誰ですか?「鯖、お前がサイコパスだろう!」と言っているのは!? #
by superserver
| 2012-03-16 02:39
| ネット論
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とかく、創価系ブロガーは外敵に晒されやすいです。
いや、愚痴タップリの内部アンチなどもいるから、「内敵」にも晒されているというべきか・・・ とにかく、その攻撃たるや、御書に仰せの通りの激しさと感じることしきり… これまでも、ヤル気を失って去った同志が幾人もいました。 是非とも、そういった攻撃に負けない為のコツを皆さんで考えていきたいと思います。 以下、私の経験上感じる事を、独断と偏見で書きなぐって見ました! コツ① 「読者の何割かは切り捨てざるを得ない、とわきまえよ」 まずこの法則を知る事が基本です。 創価系に限らず、BLOGをやれば、必ずと言っていいほど「頭のおかしな」読者に遭遇する事になるでしょう。 その時に深く傷つかないように、まずは現実を知って守備を固める必要があります。 私の掲示板運営の経験から、かなり乱暴な言い方をするならば、訪れて来る人の1割、ヘタするとそれ以上、常識を疑わざるをえない人が含まれている、と感じています。日常の社会からでは、ありえない頻度でしょう。 ネットとは、ある意味、「日常では見たこともないような人種」が存在しやすい場所だと思います。 ・ネットは、日常の社会生活では「なかなか外に出てこない」、隠れた人々が跋扈しやすい環境にある、という事です。顔も見えないし、匿名ですから。 ・「サイコパス」等の精神異常者が活躍しやすい、とも言えます。彼らは、社会生活においてはむしろ人から好まれるようなタイプである事が多く、普通にはわかりません。しかし、匿名のネットという場所では、本性を現しやすいのではないでしょうか。 したがって、リアルでの交友関係の延長で、「来る者は拒まず」のようなスタンスでいると、そういった人を呼び込んでしまう事になります。 ですから、訪問者の何割かは、切り捨てる覚悟が必要です。 こう書くと、非常に冷たい感じを受けますが、実際には我々は日常、これをフツーに行なっています。 どうでも良いセールスの訪問や、おかしな電話を「拒否」していませんか?これは、自分を守るための当然の権利ですよね。 BLOGの読者対応においても、同じことです。誰にでも、「相手を選ぶ権利」はあるのです。 コツ②「孤独を避けよ」 BLOGの主催者は、とかく孤独ですよね。 コメントしてくれる人はいるものの、記事を作る時は独りですね。 行き詰った時、問題を抱えた時など、相談する相手がいないのは寂しいことです。 したがって、意識して、他のBLOG主等と意見を交わしていくことが大切かと思います。 鯖板などの掲示板を利用して、情報交換するのも手ですね!(笑) おかしな人の判断規準や、最近出没した荒らしの情報など、結構有意義な情報交換ができるはずですよ! コツ③「陰口を叩かれる事を誉れとせよ。ただし、臆病者のたわごとを読みに行くな」 BLOGが知られるようになってくると、ふとした機会に、「陰で」自分の批判をしているのを発見する事もあるでしょう。 しかし、それはすべて「臆病者の愚痴」です。わざわざ読んだりしてはいけません。それは、貴方のレベルを相手に合わせて落としてしまうことになります。 例えば、自分が著名な芸能人になったとします。で、飲み屋で酔っぱらいが自分についていわれなき中傷を言っているとします。 そこで、大事な時間を割いて、酔っぱらいのたわ言を聞きに行くのは、果たして価値的な事なのでしょうか。 飲み屋での決定事項なんて、社会に何の影響力もありません。酔っ払い連中も、聞く耳もってません。第一、安全地帯で愚痴を言うだけですから、貴方と正面から対峙する勇気などない。逃げるに決まっています。たとえ、正論でやっつけてもビクともしないでしょう。所詮酔っぱらいですから(笑) むしろ、よそでうわさされる位に有名になった、無料で宣伝してもらっている、と思えば気にもならないものです。 創価系BLOGをやるなら、誇りを持ちましょう。御書には「賢聖は罵詈して試みるなるべし」と。 コツ④「コメント欄は、承認制がおすすめ」 通常、BLOG開設時のデフォルト設定は、コメントは誰でもできるようになっていると思います。 しかし、そのままでは、「荒らし」の思うツボ。 常時コメント欄を見張る時間などまずありませんから、スピード感は多少犠牲にしても、「承認制がおすすめ」と言えるでしょう。 全くコメントを受け付けないようにしている人もみかけますが、これは好みの問題ですかね… 私は、せっかく記事を公開するのであれば、コメントを受け付けたほうが楽しいと思いますよ! コツ⑤「」 5番目のコツは… それは、貴方が決める事です! あ、うそです(笑) なんとなく5つと銘打ってしまったのですが、4つしか浮かばないので、そのまま記事にした次第。 「5番目に是非このコツを!」というアイデアがあれば、よろしくお願い致します。m(_ _)m →続編!創価系ブロガーに捧げたい「ネットサイコパスを見破る為の5つの特徴」も読む #
by superserver
| 2012-01-01 00:37
| ネット論
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(まえがき)このホームページをご覧になる方へ 今、折伏で悩んでいるあなたのための「超・折伏法」! これを心肝に染め、実践しさえすれば、あなたも今日よりは「折伏の鉄人」! あなたの折伏に対する「開顕の書」とならんことを切に望む次第であります。 (折伏の王者「常勝関西」より発信) (1)地域広布とは 地域の広宣流布とはどういうことかというと、地域の世帯が増えなくちゃダメですね。そして信心している人が功徳を受けなくちゃいけません。世帯が増えて、功徳を受ける人が増えることこそ、地域広布なんです。地域の世帯が増えたのでなければダメなんです。今頑張っても世帯が減っている所もありますね。また、功徳をあまり受けていない所もありますね。これは「後退流布」と言います。広宣流布がバックしているわけですから、「後退流布」です。世帯が増える事と、皆が功徳を受ける事を祈らなければいけないんです。そのための活動です。頑張っても空回りしてはダメです。あくまで目的は幸せな人を増やすことなんですね。 (2)折伏とは 折伏は、まさに自分自身の功徳の拡大、そして幸せな人を増やす幸せの拡大、そして広布の拡大なんです。だから、頑張るべきなのであって、エゴのため頑張ってはいけません。苦しくなってしまいます。最終的に幸せな人をいっぱい作るべきなんです。本流だけが目的じゃないということです。 (3)功徳を受けよう あくまでも、自分と相手のためです。それが広布の前進です。そのために頑張ろうと決めることは大事なことです。そうでなくて、結果さえ出せばよいというのは間違いです。変な結果を出せば誰も功徳を受けません。広宣流布は進みません。不信が残ってしまいます。これは、間違っています。そういう面で信心は、頑張ればいいんではなくて、「功徳を受けるように頑張らなくてはダメ」なんです。今は、そうではなくて、功徳を受けないように頑張っているのが「はやり」になっています。 (4)信心の使命は「義務」ではなく「権利」 私たちは大聖人様の仏子です。子供です。「地湧の菩薩」です。だから私たちが生まれてきたのは、皆を幸せにして広宣流布をするためなんです。ですが、その使命といっても「義務」ではありません。「権利」なんです。「幸せの権利」だからやるのであって、「義務」になったら重荷になってしまいます。信仰はどこまでいっても「義務」ではありません。「権利」なんですね。だから、折伏も「義務」になったら重荷になってしまいます。「義務」はありません。だけれど使命ではあるんですね。ですから「使命を果たすときに幸せになる」ともいえます。だから「決意すること」は大事なんです。 (5)どうすれば折伏ができるか(祈り方と下種先) では、折伏はどうすればできるかというと、これは、祈ればできます。「不幸な人を救わせて下さい。とりあえず一人。」と祈ること。そう祈ればできます。次に折伏する相手はどういう人かというと、悩んでいる人を折伏することです。悩みがない人は折伏できません。悩みのない人を一生懸命折伏している場合があります。これではできません。今、悩みがないという人は、「信仰は必要ない」と言いますから。実際は悩みがないのではなくて、悩まないことが多いようですが。 しかし今、悩んでない人はいくら言ってもダメです。普通の人は、仏法には関心がありません。病気の人に「薬を飲みなさい」と言ったら飲むでしょうけど、健康な人に飲めと言っても飲みません。「今、信仰は必要ない」と言ってる人に、いくら勧めてもダメです。今、悩んでいる人から救うんです。悩んでいる相手がいれば、その人のことを祈ること。相手がいなかったら「不幸な人を救わせて下さい」と祈ることです。必ずそういう人が出てきます。そうすればその人を折伏してあげればいいんです。 これはたくさん例があります。この前、ある所でこの話をしました。次の次の日、ある壮年部の人に会いましたら、「昨日、担当地域に行きました。話を聞いた婦人部の人が、あれから決意して不幸な人を救わせて下さいって祈ったら、古い友達から電話がかかってきたそうです。悩みがあるんだけど、相談にのってちょうだいと言ってきたそうです。明日来るそうです。絶対折伏してあげたいって言っていました。」と言うんです。それで、次の日に折伏できたそうです。そういう話はいっぱいあります。不幸な人、悩んでいる人を救わせて下さいと祈ることです。いなくても出来ます。これは法華経に書いてあります。法華経の法師品に「我が滅度の後にこの経説かんと欲せば化人を使わして法を説かしめん、随順して逆らわじ」とあります。「素直に話を聴く人を遣わすから、法を説きなさい」って書いてあるのです。ですから来てくれます。呼べばいいんです。電話をかけてもダメです。御本尊経由で呼ぶことです。「御本尊様お願いします。悩んでいる人をよこして下さい」と祈ることです。そうすれば来てくれますから、来たら折伏してあげることです。悩んでいる人がいれば最初から折伏してあげればいいんですよ。そのように祈れば折伏は出来ます。 自分のことが叶うんですから、不幸な人を救おうという祈りが叶わないわけがありません。そう強く祈れば必ず来ますから、そうしたら折伏してあげればいいんです。 (6)折伏でどう話すか では、どういうように折伏するかというと、仏法の話をしないことです。しかし、皆さん仏法の説明を一生懸命してるでしょう。仏法の説明は折伏ではありません。ただの解説です。教学解説です。皆仏法には関心がありません。何に関心があるのか。自分の悩みに最大の関心があります。「あなたの悩みが解決した方がいいか、しない方がいいか。どうですか」「した方がいいに決まっています」「じゃ、信心しましょう」これでいいんです。簡単でしょう。これが折伏なんです。相手を救うためですからきれいごとではありません。「仏法はすばらしい。仏法はすばらしい」「やってみましょう」こういうのが多いからダメなんです。これは折伏ではなく、「伏伏(ブクブク)」です。ブクブクはダメです。悩みに一歩切り込むことです。パっと確信をもって切り込むことです。これが折伏です。今それが弱くなっています。「いいからいいから、やってみなさい」が多いのです。だから、あんまり「信心しよう」と思えないんです。仏法にほとんど関心ないんですから。どんなにすばらしい話を聞いてもやる気は起こりません。自分のためだからやるんです信仰は。だから信仰の必要性を教えてあげるのが折伏です。仏法の説明ではありません。折伏には教学はいりません。 (7)一番悩んでいる人から折伏してあげよう 相手の悩みがわかれば折伏はできます。折伏しようと思ったら、まず悩みを聞き出すことです。「悩みがありますかーっ」と聞いてはダメです。「ありません」と言うに決まっています。これにいくまでが友好活動です。信頼関係ができれば、愚痴をこぼしたり、悩みを打ち明けてくれます。そこから折伏をしてあげること。悩みがわからないうちは折伏はできません。悩みがわかったら折伏を始めます。 「悩みはどこから来るかわかりますか。」 「あなたの宿命から来るんですよ。」 「宿命はどこから来るかわかりますか。」 「あなたの過去の謗法から来るんですよ。間違った宗教から来るんですよ。」 「だから謗法を捨てて正しい信仰をすれば、あなたの悩みは解決しますよ。」 「信心しましょう。」 「はい、します。」 これでいいんです。簡単でしょう。仏法の説明をしないことです。悩んでる人、例えば病気の人は病院に行きます。病院では注射を打ちますが、その時この薬はどういう成分の薬か、事細かく説明しますか。説明せずに、黙ってズブっと打ちます。いきなりズブっと打ちます。でも痛くても我慢します。治ると思うからです。薬の成分がどうかではなくて、治るかどうかが問題なんです。それと同じですね。悩みが解決するかどうかを、相手は知りたいんであって、仏法を知りたいんではないんです。 「あなたの悩みは必ず解決しますよ」と言い切ってあげることが折伏です。一番いいのは体験談です。相手の悩みに合わせた体験談です。病気の人は病気の治った体験談、仕事の悩みの人は、仕事の悩みが解決した体験談、相手と同じ悩みの体験が一番いいんです。仏法の説明がなくてもいいんです。教学がなくても折伏はできます。ですけど折伏は、悩みがわからなければできません。そうでないと、単なる仏法の説明になってしまいます。そうすると、「ああ、そう結構ですね。でも私には関係ありません」となってしまいます。悩みに一歩切り込むことが折伏なんです。言い切ってあげることです。「あなたの悩み解決しますよ。信心しましょう」と。それでもその人が簡単に信心されるわけではありません。また祈ってあげればいいんです。そこまでいけば、あとは確信をもって祈ってあげればいいんです。あとは祈って決意させてあげるだけですから、折伏はできます。 この間、ある所で会合がありました。そこでそういう話をして、ちょうど一ヵ月目に婦人部の方が3人やって来られました。その時決意したから3人とも折伏ができたと言っていました。不幸な人を救おうと決意したら、3人とも折伏ができたんです。そういうことはいっぱいあります。 H.K副会長の指導より #
by superserver
| 2010-12-28 22:13
| 学会
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「仏法」と「王法」の違いは何か~「仏法」の方がかなり恐ろしい話の続きです。 突然ですが… 目の前で、人が溺れているとします。 あなたは泳ぎの達人です。ロープも浮き輪ももってます。 岸辺にいたあなたは、悲鳴は聞いたが、助ける勇気が出ず、その場から立ち去ってしまったとします。 この場合、あなたは法律で罪に問われるでしょうか。 問われませんよね。 じゃぁ、仏法では、これはどうなるんでしょうか? 先に、「悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべしと仏の御いましめのがれがたき」(頼基陳状p1156)また、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷殿御返事p1056)との御金言を紹介しました。 これは仏敵を責める場合なので、シチュエーションが違うといえば違うのですが… 私は、「人を助けることができる環境にいたのに、勇気が出ず、助けられなかった」事は、多かれ少なかれ、罪であると考えています。 なぜか。 逆に、ルール違反さえしなければ、人を助けなくても罪ではない、としましょう。 そうすると、世界で今、起きている戦争、飢餓、その他全ての「悲惨」の罪の責任は、どこにもないことになります。 「社会のシステムがそうなっているから」「我々は歯車の一部に過ぎない」と。(責任をとらない「ひとのせい」集団の力学的仕組み、あるいは戦争責任は誰にあるかを参照) 御金言には「見ながら」と明確に仰せです。知らんぷりはできないことに注目しましょう。 いまや、世界の裏で起こっている悲惨も、瞬時に報道される時代です。 「家政婦は見た!」ならぬ「火星人は見た!」(笑) 見たからには戦わなきゃいけない。「見なきゃよかった!」もう遅い(笑) 私自身、なにをどう戦っていいのかさえ手探りです。 しかし、最高の法を持っている青年であるとの気概があるならば、世界の悲惨を失くすという大願を忘れず進みたいと思います。 #
by superserver
| 2009-11-28 22:22
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by superserver
| 2009-11-18 11:11
| 学会
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by superserver リンク帳。
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