仏法では、因果の理法で罪があれば必ず罰せられる、と説きますね。
社会でも法律を守らず罪を作れば、罰せられるのが当然。 同じ「法」でも、「仏法」に対して「王法」といった言い方をします。 では「仏法」と「王法」の違いは何か?当然、宗教と社会、という単なる「カテゴリー」上の違いはあるのですが、その効果と影響についてより深く考えて見たいと思います。 まず一つは、「王法」では「逃げおおせることができる」事が大きな特徴でしょう。執行には人間の力を必要としますから。それに対して仏法からは逃げられない。「天網恢恢疎にして漏らさず」ですね。 そして、「王法」では冤罪というミスも起きる。仏法では、裁きは正確に行われますね。究極の公正さです。 そして、これが最も大事だと思うんですが、「王法」では「心の動き」まで察知して罰することはできない。 強盗やテロを準備したという「事実」があれば逮捕できますが、やろうかな、と心で考えただけでは罪にならない。 これに対して仏法では「身口意の三業」と言って、「意」つまり「心の動き」も「業」に刻まれる、つまり悪いことを考えるだけでも罪だ、と説きます。 考えてもみてください。これ、実に恐ろしい(笑) 通常、我々は「あいつなんか死んでしまえばいいんだ」などと「思ったり」はしますが、口には出さない。 え、思いもしないって?( ̄□ ̄;)<私だけ… 「あの野郎」「ちくしょー」「エコエコアザラク・・・」って思ったことないですか?え、ない? まぁ、いずれにせよ、「考えるだけで罪になる」なんて規範は現代の社会生活では植えつけられませんから、思考だけは自由に行う癖がついている。 ここ、注意が必要だと思うんです。 「お釈迦様でも気がつくめぇ」などという罰当たりな言い回しもありますが(笑) 仏法においては心の中までもが「法の裁き」の対象になっていることを意識すべきでしょう。 しかも「同生同名天」という報告役が常に監視しているという。一日2交代(笑) 御書には、「人の身には同生同名と申す二のつかひを天生るる時よりつけさせ給いて影の身にしたがふがごとく須臾もはなれず」と。(同生同名御書p1115) 更に仏法では「敵を攻めない」と罪です(笑) 戦場の逃亡兵にでもならないかぎり、王法ではそこまでは裁けませんね(笑) 御書には、「悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべしと仏の御いましめのがれがたき」(頼基陳状p1156)また、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷殿御返事p1056)と、厳しい。 まぁ、だからといってガチガチになって牙むいて、毎日をおくらなきゃいけない、という事ではなくて(笑) 仏法者の生活は本来、「無作」であるべきでしょう。 そこににじみ出る仏性があればいい。悪を攻める勇気、同志を憎まない勇気。 どんな相手にも、自然と「幸せになってほしいな」と思うようになればしめたもの。では、どうすればいいのか? これも御書にあります。 一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり(御義口伝巻下p790) 結局は日々の活動の中で、しっかり修行していく所に、自然と具わっていくんだな、と。
by superserver
| 2009-05-17 02:08
| 御書
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