「仏法」と「王法」の違いは何か~「仏法」の方がかなり恐ろしい話の続きです。 突然ですが… 目の前で、人が溺れているとします。 あなたは泳ぎの達人です。ロープも浮き輪ももってます。 岸辺にいたあなたは、悲鳴は聞いたが、助ける勇気が出ず、その場から立ち去ってしまったとします。 この場合、あなたは法律で罪に問われるでしょうか。 問われませんよね。 じゃぁ、仏法では、これはどうなるんでしょうか? 先に、「悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべしと仏の御いましめのがれがたき」(頼基陳状p1156)また、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷殿御返事p1056)との御金言を紹介しました。 これは仏敵を責める場合なので、シチュエーションが違うといえば違うのですが… 私は、「人を助けることができる環境にいたのに、勇気が出ず、助けられなかった」事は、多かれ少なかれ、罪であると考えています。 なぜか。 逆に、ルール違反さえしなければ、人を助けなくても罪ではない、としましょう。 そうすると、世界で今、起きている戦争、飢餓、その他全ての「悲惨」の罪の責任は、どこにもないことになります。 「社会のシステムがそうなっているから」「我々は歯車の一部に過ぎない」と。(責任をとらない「ひとのせい」集団の力学的仕組み、あるいは戦争責任は誰にあるかを参照) 御金言には「見ながら」と明確に仰せです。知らんぷりはできないことに注目しましょう。 いまや、世界の裏で起こっている悲惨も、瞬時に報道される時代です。 「家政婦は見た!」ならぬ「火星人は見た!」(笑) 見たからには戦わなきゃいけない。「見なきゃよかった!」もう遅い(笑) 私自身、なにをどう戦っていいのかさえ手探りです。 しかし、最高の法を持っている青年であるとの気概があるならば、世界の悲惨を失くすという大願を忘れず進みたいと思います。
by superserver
| 2009-11-28 22:22
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by superserver リンク帳。
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