日本人の多くは、習慣的な宗教行事には参加はしても、信仰心を持っていない人が多い。むしろ、特定の宗教を信仰することに対して「胡散臭い」と思う。
考えてみれば、日本だけでなく、現在の世の中には宗教を「心から」信じることを難しくするさまざまな要素があるように思う。 私は、創価学会においてこの日蓮信仰に出会い、信じる側の人間である。しかし、もしこの信仰に出会わなかったら、上記の例にもれず、無宗教・無神論を決め込んでいたことだろう。 (1)信仰蔑視へのお誘い~「インチキ宗教家」「宗教の名を借りたテロ」 しばしば報道されるように、人々の信仰心や、偉大なモノに対する人間の畏怖心を利用し、オカルト・インチキで金儲けをし、功名心を満たそうとする下劣なエセ宗教家がいる。 その本質は唾棄すべき「宗教利用」であり、「人間蔑視」であろうが、インチキ宗教家の罪は、むしろ、人々に宗教に対する不信を植え付けてしまうことではないか。 オウム真理教が行ったテロを見て、「宗教とは怖いものだ」と、思ってしまうのも無理はない。 また、宗教を標榜したテロリストや、それを封じ込めようとする国家が「宗教」を利用して起こす戦争を目の当たりにし、「宗教こそが悲惨の原因ではないか」と思ってしまう人を、私はあえて批判せず、同感したい。 一本の木を見て、森全体を理解するのは不可能であるが、多くの腐った木々を目の当たりにし、「この森にはまともな木はなさそうだ」と思ってしまうことは、悲しいけれども、仕方がないようである。 (2)科学信仰 科学は、「真実」を追い求める。 したがって、科学で証明されたものは、「正しい」はずだ。 だから、科学がまだ解明していないものに対しては、正直に「まだわからない」とすべきだ。 しかし、科学の発展がめざましいがために、それを万能と思い込み、まだわからないことに対しても、断定的に論ずる風潮がある。 たとえば、脳と心の関連性については、まだ脳のメカニズムは(全くといっていいほど)解明されていないにもかかわらず、あたかも「脳=コンピュータ」といった拙速な論理をもって、人間の行動を機械的に理解しようとするのは、行き過ぎだと思う。 記憶について言えば、脳があたかも「メモリ」のように言われているが、それはまだまだ乱暴な結論だ。 (私の考えでは、脳以外にも記憶を保存する「場所」はあるのではないか{体内・外にかかわらず!}と思うが、ここでは触れない。いずれ詳しく書きたい) 上記理由により、科学信仰によって「心」の存在を否定し、生命の営みを、ただの物質による偶然の機械的な運動に帰するのには、反対である。 (3)だらしない聖職者 日蓮大聖人は、当時の聖職者を痛烈に批判した。 残念なことに、その流れをくむ「日蓮正宗」の寺院に棲む坊主たち自らが、日蓮の批判の矛先である「堕落した聖職者」に成り下がってしまった。 1番で述べたことと相通じるが、最も宗教を宣揚し、人々に尽くさなければならない立場の者が、宗教を職業化し、心ある者の誠意をふみにじっていることは、誠に悲しく、恥ずべきことである。 以上述べたような様々な障害を越えて、確固たる信仰を持つに至った自分は、本当に幸せであると思う。 何より、この信仰によって力強く、何があっても前向きに生きるエンジンを与えてくれた様々な恩人に、感謝する毎日である。 願わくば、世の無神論の人々は、これまで見てきた腐った木々に飽きず、最後の砦として創価の門をたたかれんことを。
by superserver
| 2006-05-31 23:22
| コラム
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