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2012-03-16T11:20:41+09:00
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Excite Blog
続編!創価系ブロガーに捧げたい「ネットサイコパスを見破る為の5つの特徴」
http://supersaba.exblog.jp/17974401/
2012-03-16T02:39:00+09:00
2012-03-16T11:20:41+09:00
2012-03-16T02:25:29+09:00
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ネット論
また、せっかく相手の悩みを聞いてあげても、相手がナリスマシで、愉快犯であった、という悔しい思いをしたことはありませんか。
「どういう神経をしているのか?」と訝った経験は、きっとお持ちではないでしょうか。
創価系ブロガーに捧げたい「敵の攻撃に負けない為の5つのコツ」で紹介したように、ネットの世界には、「日常では見たこともないようなおかしな人々」が溢れている、というのが私の印象です。
日常生活では普通であっても、ネットという匿名の世界に浸った時におかしくなる…あたかも、車を運転する時に性格が豹変する人がいるように、ネットという匿名空間の中では、「抑圧された自己」なんかが涌現しやすいのではないでしょうか。
本稿では、そういった人を、仮に「ネットサイコパス」と呼ぶことにしましょう。
一般のサイコパスの特徴などは、簡単に検索できますのでそちらに譲るとして、ここでは「テキストの世界」でそういった人々をどう判断するかについて以下5点にわたって考察したいと思います。
(ちなみに、以前、鯖板で話題にした事もありますが、スコット・ペック著の「平気でうそをつく人たち」という本には、「サイコパス」の精神状態について詳細な研究がありますので、是非おすすめしたいと思います。)
1.サイコパスは、一見「まとも」
まず、意外に思うかも知れませんが、「異常者」というような印象は彼らにはありません。
外見を気にしますので、一見魅力的でさえあります。
従い、ちょっとした「テキストのみ」で相手を見破るのは非常に困難です。
ひとつ手がかりがあるとすれば、「なんとなく賢そうな論調」を常に見にまとっているのではないかと思います。
しかし、注意深く見ていくと、その億には狡猾な本心が潜んでいることが垣間見える事でしょう。
2.サイコパスは、「泥まみれにならない」
彼らは、「他人の痛みを気遣う」「自己反省をする」といった精神が欠落していますから、平気で他人を蹴落とし、自分の体面を保とうとします。
本来なら謝るべき場面で謝らない人物、自己の非を絶対に認めない人物に要注意です。
しかし、彼らは「絶対に謝罪をしない」というわけではありません。逆に、謝罪する事によって自分の株が上がると思う場面では、巧妙に謝るのです。
判断が難しいですが、「泥をかぶらない謝罪なら、場合によってはするが、本当にかっこ悪い状況には自分を陥れない」という事を念頭において下さい。
3.サイコパスは、「嘘つき」であり信頼性に欠ける
発言に矛盾やブレが多い、嘘が疑われる、「自分を棚に上げる」発言が多い、といった人間には要注意です。
もし、掲示板等で活躍しているコテハンであれば、「信頼を勝ち取っているか」に注目してみてください。(ただ注意すべきは、ネット上では「多重ハンドル」等を駆使して、さも多くの人が同意見であるように見せかける事ができる事です。ホスト情報などで判断しようにも、自宅PC、携帯、モバイルPC等からプロバイダを変えてなりすます例もありますから、厄介ではあります。賢く判断するしか無いですね)
4.サイコパスは、「ユーモアセンスに欠ける?」
これは私の経験から言うのですが、サイコパスは、魅力的であろうとする事から、ユーモラスな一面も兼ね備えている事が多いです。しかし、自己中心的であるから、そのユーモアは、真の「面白さ」というよりも、仮想敵などに対する侮蔑や嘲笑といった、嫌味のあるユーモアが多いと思います。
「私にはサイコパスが必要である。なぜなら、最近腰が痛いので・・あ、それはサロンパスか!」みたいな、自分の身を呈して「面白い事を言う」といった行動には出ないわけで…え!あまり面白くない??(°д°;;)
ともあれ、彼らには、「情緒」「詩心」「ロマン」が欠けているので、無味乾燥で荒廃した精神という印象を与える人には要注意です。
5.サイコパスは「寄生虫」である
サイコパスは、その飽きっぽい性格故に、「姑息」が特徴です。
決して、自分で何かを築きあげる、という甲斐性はありません。
例えば、他人のBLOGを批判するのであれば、まず自分のBLOGを創り上げてからそれを「お手本」として示すべきです。そういった事もせずに、ただ「寄生虫的に」他人の批判ばかりしている輩は、「姑息」であるという事です。(お座なりなBLOGを作って、その責めをかわすという場合もあるでしょうが、そのBLOGが「他人の批判」で凝り固まっているのであれば、「姑息」の域を出ていませんね)
以上のような条件に多く当てはまるような相手は、私の経験上、どんだけ「誠実」に対応しようと、時間のムダです。(ここはテキストの世界。相手の胸ぐらを掴んで、涙ながらに訴える、という事はできないわけです)「住む世界が違う」と認識し、賢く遠ざけ、まともに相手をする事を避けるよう、願ってやみません。
これまでも、多くの先輩方が、多くの時間を浪費してきたのですから(笑)
…えっ!誰ですか?「鯖、お前がサイコパスだろう!」と言っているのは!?
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創価系ブロガーに捧げたい「敵の攻撃に負けない為の5つのコツ」(書きかけ)
http://supersaba.exblog.jp/17732965/
2012-01-01T00:37:00+09:00
2012-03-16T11:00:23+09:00
2012-02-03T00:36:39+09:00
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ネット論
いや、愚痴タップリの内部アンチなどもいるから、「内敵」にも晒されているというべきか・・・
とにかく、その攻撃たるや、御書に仰せの通りの激しさと感じることしきり…
これまでも、ヤル気を失って去った同志が幾人もいました。
是非とも、そういった攻撃に負けない為のコツを皆さんで考えていきたいと思います。
以下、私の経験上感じる事を、独断と偏見で書きなぐって見ました!
コツ① 「読者の何割かは切り捨てざるを得ない、とわきまえよ」
まずこの法則を知る事が基本です。
創価系に限らず、BLOGをやれば、必ずと言っていいほど「頭のおかしな」読者に遭遇する事になるでしょう。
その時に深く傷つかないように、まずは現実を知って守備を固める必要があります。
私の掲示板運営の経験から、かなり乱暴な言い方をするならば、訪れて来る人の1割、ヘタするとそれ以上、常識を疑わざるをえない人が含まれている、と感じています。日常の社会からでは、ありえない頻度でしょう。
ネットとは、ある意味、「日常では見たこともないような人種」が存在しやすい場所だと思います。
・ネットは、日常の社会生活では「なかなか外に出てこない」、隠れた人々が跋扈しやすい環境にある、という事です。顔も見えないし、匿名ですから。
・「サイコパス」等の精神異常者が活躍しやすい、とも言えます。彼らは、社会生活においてはむしろ人から好まれるようなタイプである事が多く、普通にはわかりません。しかし、匿名のネットという場所では、本性を現しやすいのではないでしょうか。
したがって、リアルでの交友関係の延長で、「来る者は拒まず」のようなスタンスでいると、そういった人を呼び込んでしまう事になります。
ですから、訪問者の何割かは、切り捨てる覚悟が必要です。
こう書くと、非常に冷たい感じを受けますが、実際には我々は日常、これをフツーに行なっています。
どうでも良いセールスの訪問や、おかしな電話を「拒否」していませんか?これは、自分を守るための当然の権利ですよね。
BLOGの読者対応においても、同じことです。誰にでも、「相手を選ぶ権利」はあるのです。
コツ②「孤独を避けよ」
BLOGの主催者は、とかく孤独ですよね。
コメントしてくれる人はいるものの、記事を作る時は独りですね。
行き詰った時、問題を抱えた時など、相談する相手がいないのは寂しいことです。
したがって、意識して、他のBLOG主等と意見を交わしていくことが大切かと思います。
鯖板などの掲示板を利用して、情報交換するのも手ですね!(笑)
おかしな人の判断規準や、最近出没した荒らしの情報など、結構有意義な情報交換ができるはずですよ!
コツ③「陰口を叩かれる事を誉れとせよ。ただし、臆病者のたわごとを読みに行くな」
BLOGが知られるようになってくると、ふとした機会に、「陰で」自分の批判をしているのを発見する事もあるでしょう。
しかし、それはすべて「臆病者の愚痴」です。わざわざ読んだりしてはいけません。それは、貴方のレベルを相手に合わせて落としてしまうことになります。
例えば、自分が著名な芸能人になったとします。で、飲み屋で酔っぱらいが自分についていわれなき中傷を言っているとします。
そこで、大事な時間を割いて、酔っぱらいのたわ言を聞きに行くのは、果たして価値的な事なのでしょうか。
飲み屋での決定事項なんて、社会に何の影響力もありません。酔っ払い連中も、聞く耳もってません。第一、安全地帯で愚痴を言うだけですから、貴方と正面から対峙する勇気などない。逃げるに決まっています。たとえ、正論でやっつけてもビクともしないでしょう。所詮酔っぱらいですから(笑)
むしろ、よそでうわさされる位に有名になった、無料で宣伝してもらっている、と思えば気にもならないものです。
創価系BLOGをやるなら、誇りを持ちましょう。御書には「賢聖は罵詈して試みるなるべし」と。
コツ④「コメント欄は、承認制がおすすめ」
通常、BLOG開設時のデフォルト設定は、コメントは誰でもできるようになっていると思います。
しかし、そのままでは、「荒らし」の思うツボ。
常時コメント欄を見張る時間などまずありませんから、スピード感は多少犠牲にしても、「承認制がおすすめ」と言えるでしょう。
全くコメントを受け付けないようにしている人もみかけますが、これは好みの問題ですかね…
私は、せっかく記事を公開するのであれば、コメントを受け付けたほうが楽しいと思いますよ!
コツ⑤「」
5番目のコツは…
それは、貴方が決める事です!
あ、うそです(笑)
なんとなく5つと銘打ってしまったのですが、4つしか浮かばないので、そのまま記事にした次第。
「5番目に是非このコツを!」というアイデアがあれば、よろしくお願い致します。m(_ _)m
→続編!創価系ブロガーに捧げたい「ネットサイコパスを見破る為の5つの特徴」も読む
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折伏の鉄人…というテキストがあったなぁ
http://supersaba.exblog.jp/14660429/
2010-12-28T22:13:31+09:00
2010-12-28T22:10:16+09:00
2010-12-28T22:10:16+09:00
superserver
学会
今、折伏で悩んでいるあなたのための「超・折伏法」!
これを心肝に染め、実践しさえすれば、あなたも今日よりは「折伏の鉄人」!
あなたの折伏に対する「開顕の書」とならんことを切に望む次第であります。
(折伏の王者「常勝関西」より発信)
(1)地域広布とは
地域の広宣流布とはどういうことかというと、地域の世帯が増えなくちゃダメですね。そして信心している人が功徳を受けなくちゃいけません。世帯が増えて、功徳を受ける人が増えることこそ、地域広布なんです。地域の世帯が増えたのでなければダメなんです。今頑張っても世帯が減っている所もありますね。また、功徳をあまり受けていない所もありますね。これは「後退流布」と言います。広宣流布がバックしているわけですから、「後退流布」です。世帯が増える事と、皆が功徳を受ける事を祈らなければいけないんです。そのための活動です。頑張っても空回りしてはダメです。あくまで目的は幸せな人を増やすことなんですね。
(2)折伏とは
折伏は、まさに自分自身の功徳の拡大、そして幸せな人を増やす幸せの拡大、そして広布の拡大なんです。だから、頑張るべきなのであって、エゴのため頑張ってはいけません。苦しくなってしまいます。最終的に幸せな人をいっぱい作るべきなんです。本流だけが目的じゃないということです。
(3)功徳を受けよう
あくまでも、自分と相手のためです。それが広布の前進です。そのために頑張ろうと決めることは大事なことです。そうでなくて、結果さえ出せばよいというのは間違いです。変な結果を出せば誰も功徳を受けません。広宣流布は進みません。不信が残ってしまいます。これは、間違っています。そういう面で信心は、頑張ればいいんではなくて、「功徳を受けるように頑張らなくてはダメ」なんです。今は、そうではなくて、功徳を受けないように頑張っているのが「はやり」になっています。
(4)信心の使命は「義務」ではなく「権利」
私たちは大聖人様の仏子です。子供です。「地湧の菩薩」です。だから私たちが生まれてきたのは、皆を幸せにして広宣流布をするためなんです。ですが、その使命といっても「義務」ではありません。「権利」なんです。「幸せの権利」だからやるのであって、「義務」になったら重荷になってしまいます。信仰はどこまでいっても「義務」ではありません。「権利」なんですね。だから、折伏も「義務」になったら重荷になってしまいます。「義務」はありません。だけれど使命ではあるんですね。ですから「使命を果たすときに幸せになる」ともいえます。だから「決意すること」は大事なんです。
(5)どうすれば折伏ができるか(祈り方と下種先)
では、折伏はどうすればできるかというと、これは、祈ればできます。「不幸な人を救わせて下さい。とりあえず一人。」と祈ること。そう祈ればできます。次に折伏する相手はどういう人かというと、悩んでいる人を折伏することです。悩みがない人は折伏できません。悩みのない人を一生懸命折伏している場合があります。これではできません。今、悩みがないという人は、「信仰は必要ない」と言いますから。実際は悩みがないのではなくて、悩まないことが多いようですが。
しかし今、悩んでない人はいくら言ってもダメです。普通の人は、仏法には関心がありません。病気の人に「薬を飲みなさい」と言ったら飲むでしょうけど、健康な人に飲めと言っても飲みません。「今、信仰は必要ない」と言ってる人に、いくら勧めてもダメです。今、悩んでいる人から救うんです。悩んでいる相手がいれば、その人のことを祈ること。相手がいなかったら「不幸な人を救わせて下さい」と祈ることです。必ずそういう人が出てきます。そうすればその人を折伏してあげればいいんです。
これはたくさん例があります。この前、ある所でこの話をしました。次の次の日、ある壮年部の人に会いましたら、「昨日、担当地域に行きました。話を聞いた婦人部の人が、あれから決意して不幸な人を救わせて下さいって祈ったら、古い友達から電話がかかってきたそうです。悩みがあるんだけど、相談にのってちょうだいと言ってきたそうです。明日来るそうです。絶対折伏してあげたいって言っていました。」と言うんです。それで、次の日に折伏できたそうです。そういう話はいっぱいあります。不幸な人、悩んでいる人を救わせて下さいと祈ることです。いなくても出来ます。これは法華経に書いてあります。法華経の法師品に「我が滅度の後にこの経説かんと欲せば化人を使わして法を説かしめん、随順して逆らわじ」とあります。「素直に話を聴く人を遣わすから、法を説きなさい」って書いてあるのです。ですから来てくれます。呼べばいいんです。電話をかけてもダメです。御本尊経由で呼ぶことです。「御本尊様お願いします。悩んでいる人をよこして下さい」と祈ることです。そうすれば来てくれますから、来たら折伏してあげることです。悩んでいる人がいれば最初から折伏してあげればいいんですよ。そのように祈れば折伏は出来ます。
自分のことが叶うんですから、不幸な人を救おうという祈りが叶わないわけがありません。そう強く祈れば必ず来ますから、そうしたら折伏してあげればいいんです。
(6)折伏でどう話すか
では、どういうように折伏するかというと、仏法の話をしないことです。しかし、皆さん仏法の説明を一生懸命してるでしょう。仏法の説明は折伏ではありません。ただの解説です。教学解説です。皆仏法には関心がありません。何に関心があるのか。自分の悩みに最大の関心があります。「あなたの悩みが解決した方がいいか、しない方がいいか。どうですか」「した方がいいに決まっています」「じゃ、信心しましょう」これでいいんです。簡単でしょう。これが折伏なんです。相手を救うためですからきれいごとではありません。「仏法はすばらしい。仏法はすばらしい」「やってみましょう」こういうのが多いからダメなんです。これは折伏ではなく、「伏伏(ブクブク)」です。ブクブクはダメです。悩みに一歩切り込むことです。パっと確信をもって切り込むことです。これが折伏です。今それが弱くなっています。「いいからいいから、やってみなさい」が多いのです。だから、あんまり「信心しよう」と思えないんです。仏法にほとんど関心ないんですから。どんなにすばらしい話を聞いてもやる気は起こりません。自分のためだからやるんです信仰は。だから信仰の必要性を教えてあげるのが折伏です。仏法の説明ではありません。折伏には教学はいりません。
(7)一番悩んでいる人から折伏してあげよう
相手の悩みがわかれば折伏はできます。折伏しようと思ったら、まず悩みを聞き出すことです。「悩みがありますかーっ」と聞いてはダメです。「ありません」と言うに決まっています。これにいくまでが友好活動です。信頼関係ができれば、愚痴をこぼしたり、悩みを打ち明けてくれます。そこから折伏をしてあげること。悩みがわからないうちは折伏はできません。悩みがわかったら折伏を始めます。
「悩みはどこから来るかわかりますか。」
「あなたの宿命から来るんですよ。」
「宿命はどこから来るかわかりますか。」
「あなたの過去の謗法から来るんですよ。間違った宗教から来るんですよ。」
「だから謗法を捨てて正しい信仰をすれば、あなたの悩みは解決しますよ。」
「信心しましょう。」
「はい、します。」
これでいいんです。簡単でしょう。仏法の説明をしないことです。悩んでる人、例えば病気の人は病院に行きます。病院では注射を打ちますが、その時この薬はどういう成分の薬か、事細かく説明しますか。説明せずに、黙ってズブっと打ちます。いきなりズブっと打ちます。でも痛くても我慢します。治ると思うからです。薬の成分がどうかではなくて、治るかどうかが問題なんです。それと同じですね。悩みが解決するかどうかを、相手は知りたいんであって、仏法を知りたいんではないんです。
「あなたの悩みは必ず解決しますよ」と言い切ってあげることが折伏です。一番いいのは体験談です。相手の悩みに合わせた体験談です。病気の人は病気の治った体験談、仕事の悩みの人は、仕事の悩みが解決した体験談、相手と同じ悩みの体験が一番いいんです。仏法の説明がなくてもいいんです。教学がなくても折伏はできます。ですけど折伏は、悩みがわからなければできません。そうでないと、単なる仏法の説明になってしまいます。そうすると、「ああ、そう結構ですね。でも私には関係ありません」となってしまいます。悩みに一歩切り込むことが折伏なんです。言い切ってあげることです。「あなたの悩み解決しますよ。信心しましょう」と。それでもその人が簡単に信心されるわけではありません。また祈ってあげればいいんです。そこまでいけば、あとは確信をもって祈ってあげればいいんです。あとは祈って決意させてあげるだけですから、折伏はできます。
この間、ある所で会合がありました。そこでそういう話をして、ちょうど一ヵ月目に婦人部の方が3人やって来られました。その時決意したから3人とも折伏ができたと言っていました。不幸な人を救おうと決意したら、3人とも折伏ができたんです。そういうことはいっぱいあります。
H.K副会長の指導より
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「仏法」と「王法」の違いは何か(パート2)
http://supersaba.exblog.jp/12405496/
2009-11-28T22:22:00+09:00
2009-11-28T20:10:29+09:00
2009-11-28T20:10:29+09:00
superserver
未分類
「仏法」と「王法」の違いは何か~「仏法」の方がかなり恐ろしい話の続きです。
突然ですが…
目の前で、人が溺れているとします。
あなたは泳ぎの達人です。ロープも浮き輪ももってます。
岸辺にいたあなたは、悲鳴は聞いたが、助ける勇気が出ず、その場から立ち去ってしまったとします。
この場合、あなたは法律で罪に問われるでしょうか。
問われませんよね。
じゃぁ、仏法では、これはどうなるんでしょうか?
先に、「悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべしと仏の御いましめのがれがたき」(頼基陳状p1156)また、「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷殿御返事p1056)との御金言を紹介しました。
これは仏敵を責める場合なので、シチュエーションが違うといえば違うのですが…
私は、「人を助けることができる環境にいたのに、勇気が出ず、助けられなかった」事は、多かれ少なかれ、罪であると考えています。
なぜか。
逆に、ルール違反さえしなければ、人を助けなくても罪ではない、としましょう。
そうすると、世界で今、起きている戦争、飢餓、その他全ての「悲惨」の罪の責任は、どこにもないことになります。
「社会のシステムがそうなっているから」「我々は歯車の一部に過ぎない」と。(責任をとらない「ひとのせい」集団の力学的仕組み、あるいは戦争責任は誰にあるかを参照)
御金言には「見ながら」と明確に仰せです。知らんぷりはできないことに注目しましょう。
いまや、世界の裏で起こっている悲惨も、瞬時に報道される時代です。
「家政婦は見た!」ならぬ「火星人は見た!」(笑)
見たからには戦わなきゃいけない。「見なきゃよかった!」もう遅い(笑)
私自身、なにをどう戦っていいのかさえ手探りです。
しかし、最高の法を持っている青年であるとの気概があるならば、世界の悲惨を失くすという大願を忘れず進みたいと思います。
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河合師範について
http://supersaba.exblog.jp/9938615/
2009-11-18T11:11:00+09:00
2009-11-17T17:23:57+09:00
2008-11-26T23:53:47+09:00
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学会
長いので下記リンク先に置いときます。
さあ、皆でどんどん功徳を受けよう!!!(笑)
「信心の基本を学ぶ」
今日は難しい話ではなく、功徳を受けない信心のコツの話をしに来た。
この間、悲惨な話を間いた。ある婦人部が家庭の問題で悩んで1000万遍をあげたが、解決しなかったので落ち込んで寝込んだというです。先輩が心配していって見たら、「こんなに拝んでも良くならない。御本尊の馬鹿!」と拝んでいたそうです。形は信心強盛でも心が不信だから解決しなかった。「あなたは不信ですよ。」「いや、私は信心強盛です。」「でも不信じゃない」「じゃぁどうすればいいの?」「いつまでにどう解決したいですか?そう決めて祈ってご覧なさい。」と言われて、そう決めて祈ったら2週間で解決したそうです。
唱題ではなく祈りが大事。婦人部はよく唱題されます。立派です。唱題会も良いが、自分と御本尊は1対1だから、きちんと祈れば叶う。唱題のための唱題では何も叶わない。10時間唱題会なんてやらないほうがいい。あれは拷間の一種だから。
個人がやるのは何時間やっても良い。自分が決意して祈るのは良いが、みんなを縛っちゃいけない。これは先生の指導。リレー唱題会も割り当てでやっていますが、あの功徳はどこへ行くんでしょうか?また、100万遍あげて落ち込んでる人が婦人部にはよくいます。信仰とは祈ること。頑張るための信仰をしてはいけない。婦人部は頑張っています。立派です。でも全然変わっていない。これからは「頑張ります!」と言ってやるのはやめましょう。「頑張ります!」「頑張りましよう!」「でも変わりません!」だから、信仰は頑張るためにやるのではない。
変わるためにやるもの。何が変わるのか?生活が変わり、生命が変わり、環境が変わる。変わるための信仰。頑張ってれば変わるのではない。変わるために頑張るべきなんです。「頑張ります!」ではつまらない。「変わりましょう!」「変わります!」「変わりました!」これを『信心の三段活用』と言う。こう言っても、皆さんは帰りに「頑張ります!」と言って帰るでしょう。なかなか身についた習性は抜けない。
信仰というのは、行動の因果ではない。ただ頑張ればいいのではなく、一念の因果、どういう一念で頑張るか、その一念に功徳がある。頑張っても結果のでないのは一念が間違っているから。行為は正しい。一念が間違っていれば空回りになったり、功徳がなかったり、マイナスになることもあり得る。心こそ大切とよく言われる。ただ頑張ればよいと言うのは間違っている。一念の因果だから。一念を定めで頑張ることです。生活の方程式は、行き先を決めて、予定を立てて、行動するから、目的地に到着する。行き先,予定を決めないで、何となくぐるっと回って帰ってくるのは散歩。何となく信心している人はお散歩信心。気分転換程度、やらないよりはまし。でも変わらない。
東京都内は規制があって、昼間は大型トラックは通り抜けできない。夜中に時速120~130キロで高速道路をぶっ飛ばして行く。土曜日の夜は暴走族も飛ばしているが、これは違う。大型トラックは行き先・予定があるから飛ばしでいる。暴走族は行き先・予定もなく飛ばしているだけ。信心も同じ。「頑張ります!」と言って頑張っている人の車を『宿命の暴走族』と言う。婦人部はほとんど暴走族。男子部は勤行をしないで頑張っているが、これを『活動の暴走族』と言う。頑張ってもちっとも変わらない。行き先・予定を決めて突っ走らなければいけない。何をいつまでにどうするか。これが当面の行き先と予定。自分のこと、家族のこと、仕事のこと、組織としてのこと、何項目でもかまわない。具休的にいつまでにこうしようと決めること。その上でそれを御本尊に強く祈って必要な行動をすれば必ず結果がでる。決めで祈り、祈って動くこと。意外とこれを決めないで頑張っている。婦人部が祈っているのは成果だけ。変わろうと思っていない。だから功徳が出ないから行き詰まってしまう。変わろうと決めて、祈って動けば結果がでる。信心は簡単です。
どうしたらいいかと祈っている人がいるが、全く意味がない。交番へ行って「どこへ行けばいいのでしょうか?」と聞いているようなもの。答えがない。御本尊が何か決めるのではない。自分が決めて祈るからそうなる。「こうしたい!」「こうなりたい!」と祈ること。必ずそうなる。「困った!御本尊!以上終わり!」簡単です。これを『南無』と言う。南無というのは、「生命を任せます!」と言うこと。「お願いします。あとはよろしく!」これで良い。でも結構任せていない人が多い。「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。だからそうなる。願い通り。できないと決めたら御本尊不信。だめだと決めたら御本尊不信、自分の中の甘さも御本尊不信。願ってお任せ。「お願いします!あとはよろしく。」これでよい。信仰というのは、無理だから祈る。方法がないから祈る。常識で不可能だから祈る。方法があれば祈る必要はない。やればいいんです。道がいないから祈る。それが南無。そう御書に書いてある。「湿れる木より火を出し、乾ける土より水をもうけんが如く強盛に申すなり」と。「“湿った木を燃やしてみせる、砂漢から水を出してみせる”と強く祈るんだよ!」とおっしゃっている。「不可能を可能にするのが信仰だよ!」とおっしゃっている「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。これを『半南無』と言う。半信半疑は不信だから叶わない。「だめでしょうね。」とその通りになる。
一昨年の4月に、創価大学の女子学生が来た。「語学の勉強に海外に留学したいんですけど、家庭の事情で行けそうにありません。」と言われたので、「親に頼んでもだめなら御本尊にお願いしたらどうですか?無理だから祈るんですよ!これから祈れば叶いますよ!前が断崖絶壁で道がないんですから。祈れば橋が架かるように道が開けますよ。」と話をした。すると去年の2月15日に、「3月から1年間、アメリ力へ自費で留学することが決まりました:あの時、祈ったら橋がかかっちゃいました。不思護ですね。」と言うから、「だから妙法と言うんですよ。」と言った。不可能を可能にするから妙法と言う。頭で考えても判らないから妙法と言う。無理を承知で祈るんです。だめだから祈る。方法がないから祈る。方法がないから祈る。そうすると道が開ける。道はないのだから探さないこと。だから祈って道を作ればいい。借仰は力一ナビの世界ではない。カーナビというのは道がないところへは行けない。道がなかったら飛行機かヘリで行けばいい。道がなくても祈っていけばいい。簡単です。
3年前にある婦人が来た。「主人がガンであと3ケ月の命と言われた。治るでしようか?」と聞かれたので、「わかりません。簡単に治るなんて言えません。でもよく戸田先生が、“医者にかかって治るものは医者にかかれば早く治る。医者が見放したらもうこっちのものだ。もう御本尊しかないと決めたときから治り始めるんです。”とおしゃっていた。もう御本尊しかないということは、自分の力で治すしかないということ。そう決めて祈った時に自分の持っている生命力と智慧が湧くんです。仏界が出て来るのだから。弱さを出すから病気になる。その根源は宿業だから。謗法に汚染された命の癖が重い病気になる。強さを出せば病気は治る。仏界です。最高の生命力を出せば治って当たり前。そういう面で病気は治るか治らないかではない。治すか治さないか。本人次第、決意次第。医者も「重い病気にかかった人が、“病気が治ればいいなあ”とか“治りたいなあ”とか決意の弱い人は治りにくい。“絶対治すぞ!”と決意すれば早く治る。」と言っている。これは信仰に関係ないが、信仰も同じ。“治ればいいなあ”では治らない。“いつまでに治そう!”と決めたときから治り始める。」と話をした。ちょうど1年後に、ご主人と2人で来て、「病院へ行って“お父さん!もう無理だそうです。無理だから祈りましょう。だめだから祈りましよう”と祈ったら、治っちゃったんです。無理を承知で祈ると利きますね。」と言っていた。それが信仰です。
一昨年4月に奈良に行った。会合終了後に50歳前の圏婦人部長さんが来て、「関節リュウマチで足が痛くて歩けない。医者にかかっても治らないんです。」と言っていた。「もしかして、治らないと思っていませんか?」と聞くと、「思っています。」と言う。「それじゃぁ治る訳がない。“御本尊様、治りませんよね。”と祈ってるんだから。願い通りです。御書に“南無妙法蓬華経は獅子吼の如し如何なる病障りをなすべきや”とあるじゃないですか。“ただしリュウマチを除く”とは書いてありませんよ。」と話をした。「医者で治せないから信心で治すんでしょ。治らないでも治しなさい!」と言ったら、「治します。」と言って帰っていかれた。次の日、その婦人から「昨日から痛みが止まりました。」と電話があった。約半月で治ったそうです。治らなかった原因は治らないと思って拝んでいたから。決意して祈るから治り始める。だから病気は治るかではなく、治すかどうかです。決意して強く祈れば必ずいい方にいく。
「信心していれば何とかなる。」というのは迷信の一種。何ともならない。祈った分しか結果は出ない。それが信仰だから。活動家の皆さんは、みんな勤行・唱題し活勤をしているが、功徳を受けてどんどん変わる人と、全然変わらない人、悪くなる人がいる。どこが違うのか?一念の姿勢が違う。
◎決意・目標を明確にして「変わろう!こうなろう!こうしよう!」と決めて頑張っている人を『前向きの信心』と言う。
◎惰性と義務で頑張っている人、何となくしょうがなく頑張っている人、幹部だから頑張っている人、やめると怖いから頑張っている人、こういう人を『横向きの信心』と言う。
◎不信と怨嫉で頑張っている人、頑張っては愚痴、頑張っては文句の人、こういう人を『後ろ向きの信心』と言う。
前向きの人はどんどん前進する。どんどん変わる。「頑張ってます!」と言っても、横向きの人は空回りで変わらない。後ろ向きの人はだんだん後退して悪くなる。車で言うと、ドライプ・ニュートラル・バックギアにあたる。エンジンがフル回転してもギアが入っていなければ前に進まない。ニュートラルでアクセルを踏んでもエンジン空吹かし。バックギアで吹かしたら事故を起こす。婦人部にはバックギアで頑張っている人が結構いる。頑張っては愚痴、頑張っては文句、頑張つては怨嫉、亭主・子供をひき殺して頑張っている。奥さんが変わらないから主人以下みんな不信になっている。変な信心。
では、これからどうすればいいのか?前向きに、強気に、過去のことは反省しないこと。反省してもどうせまたやるんだから。生命が変わらないとまたやるから。決意すればよい。これから良くなればいい。後ろ向き運転は事故の元。過去のことは振り返らないこと。良くなれぱいい。過去のことが活きてくるから。振り返っても落ち込むだけ。いつも前向き、強気でいい。先生は「タッチの差だ」と言われている。オートマチックの車だと、ドライプとバックキアはわすか2~3センチの差。タッチの差だが結果はえらい違い。頑張っていることは同じだが、前向きと横向きでは結果はえらい違う。「いつも信心は前向きで行くんだよ!」と先生も言われている。「言われたから、しょうがないからやる」では、ニュートラルかバックギアになってしまう。そうすると苦しくなる。変えるために、功徳を受けるために頑張ればよい。そうすれぱどんどん変わる。頑張るために頑張ってもだめ。しょうがなくて頑張つてはだめ。マイナスになってしまう。
100万遍あげても不信なら功徳はゼロ。頑張っても信心のことで愚痴と文句を言うと功徳はゼロになる。「愚痴と文句は功徳を消すよ!」というのは先生の指導、なぜかと言うと、祈れば解決する。祈らないで愚痴を言っている・文句を言っているのは御本尊不信だから。「私ばっかり苦労して」と言うが、言い分は正しくても何も解決しない。これを『正しい愚痴』と言う。正しい文句かもしれないが、だめ。解決しない。信心は良いか悪いかではない。良くなるかどうか。仏法は勝負。良くなるように祈ればいい。そうすれぱ解決する。いくら「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っても、愚痴と文句だから開けない。功徳を受けたい人は愚痴と文句をやめること。同志に怨嫉をすると功徳はマイナスになる。罰になる。怨嫉は謗法だから困ったことに、相手が間違っていても同志だと怨嫉になる。「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っていることが結構ある。これを『正しい怨嫉』と言う。
正しくても怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰が出る。そう御書に書いてある。「それが本当でも嘘でも」と書いてある。怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。人が裁くのではない。法が裁く。相手の成長を祈ってあげること。そうすれば自分も相手も良くなる。「幹部のくせに」と言わないこと。変な幹部もいるが、成長を祈ってあげること。「幹部のくせに」と言ったら怨嫉になる。
正しくても怨嫉になってしまう。成長を祈ってあげれば相手は変わらなくても自分は良くなる。相手がやるからこちらも怨嫉をやり返すことを『差し違え』と言う。これもよくあるが、両方とも功徳が消えてしまう。人のために功徳を消してはつまらない。人のことはほっとくか祈るか、どっちかしかない。感情をぶつければ怨嫉になる。御本尊に祈ってあげれば自分も相手も変わる。結構多いのが家庭内怨嫉。主人を恨み、姑を恨んで頑張っている。主人を恨んでも変わる気がないんだから無駄。そんな主人を選んだのだから自業自得。
よく戸田先生が「3歳と5歳の兄弟だから喧嘩になる。境涯が近いからだよ。片方が10歳だったら喧嘩にならないだろ。夫婦でも同じだよ。自分が境涯を上げて、相手を引っ張り上げてやればいいんだ。」と言われていた。相手の成長を祈ればいい。主人の成長を祈れば自分が成長する。相手も成長する。感情をぶつけるから怨嫉になる。主人は悩んでいないから。こっちが祈るしかない。姑さんも悩んでいない。変わる気もない。成長を祈ってあげること。嫁は未熟に決まっているんだから、姑は成長を祈ってあげればいい。「これだけは別」と言う気持ちでやっている。もともと姑と嫁は天敵。その前に同志なんだから祈ってあげればいい。そうずればすっきりするのに。怨嫉をやめて相手のことを祈れば自分が良くなる。これがコツ。
婦人部はよく壮年部に怨嫉している。理由はわかる。でも壮年部は、悩まない・動かない・祈らないだから、怨嫉したくもなりますよね。『正しい怨嫉』です。でも功徳は消えてしまう。それではつまらないから、壮年部には怨嫉しないこと。どうしたらいいかというと、頼りにしないこと。頼りにするから腹が立つ。なぜかというと、壮年部はまだ末来部。昔から全然成長していない。しかも本人たちは悩んでないから。頼りにしないで成長を祈ってあげること。婦人部は怒っているが、祈ってない。悩んでるのはこっちで相手に悩んでないんだから、怨嫉をやめて成長を祈ってあげること。大事にして下さい。育ちますから。
水道の蛇口から水がポタポタと垂れているのをバケツにためても、穴があいていれば全部漏れてしまう。婦人部はこれに似ている。思痴の穴・文句の穴・怨嫉の穴があいているから功徳がみんな漏っている。「愚痴を言わない」「文句を言わない」「怨嫉しない」これを『三悪追放』と言う。功徳を消さないコツ。その上で決めて祈って動いたら功徳が溢れてくる。その方が得。信心はスッキリと、「困った!御本尊!」と全部祈ることです。
「良くしよう!!と祈れば良くなる。それ以外は無駄。みんな勤行・唱題しているが、一念がきちんと御本尊に向いているかどうか。それが、祈っているかどうかということ。「絶対信心で解決しようという強い決意と、具体的な目標を決めて一念を定めて祈っていること」を『祈る』と言う。祈るから叶う。唱題してても祈っていない場合、決意・目標が曖昧な祈り、唱題のための唱題、これは、『惰性の祈り』。「どうしようか」と方法諭を考えている唱題は『迷いの唱題』。「だめだろうなぁ」と思って祈っている『不信の唱題』は一念が御本尊に向いていない。祈ってないから叶わない。唱題ではなく祈りが大事。
具体的に強く祈ること。そうすれば叶う。それ以外は叶わない。唱題のための唱題もつまらない。先生は「疑いや形式であれば、たとえ100万遍あげても境涯が開けるものではない。自分自身の発心で、目標を決めて唱題すれば必ず開けるのである。義務的・形式的な勤行・唱題、それは惰性のあらわれであり、空転を生むだけである。きちんと一念を定めて祈らなければだめだよ。」と言われている。こうなりたい、こうしたいと祈ればよい。信心は心ですること。頭でするのではない。心を、素直にぶつけることを祈りという。できるかどうかではなく、「こうなりたい!」と祈ればいい。必ずそうなる。信心は簡単です。
3年前の春に壮年部の本部長が来た。小さな建設会社の社長さんで、「今度の不況は深刻です。当分良くなる見通しがありません。うちの会社も売り上げが落ちています。」と言うので、「でも、不景気だからしようがないと言うんでは信仰は関係ありませんね。不景気だからこそ、売り上げ目標・利益目標をきちんと決めで、祈って努力して工夫して売り上げを上げるのが信心じゃないんですか。」と言ったら、怒って帰った。それから猛烈に祈ったらしい。すると次から次へと本業以外の新しい仕事が入ってきたそうで、それをやったら全部うまくいって、ちょうど1年間で売り上げが倍になり、社員も倍になったと言ってました。「不景気だからしようがない」では御本尊不信。「だから具体的な目標を決めて祈ろう!」というのが信仰。
去年の4月に、壮年部の会合に行った帰りに車で送ってくれた支部長が、「私は小さな貿易会社をやっていますが、3年前には潰れそうでした。2億の売り上げが1億になった。その時に無理を承知で“売り上げを3憶にする”と祈ったら3億になった。去年は“5億に!”と祈ったら5億になりました。今年は“7億”と祈っています。」と言っていた。先に決めること。祈った上で努力して道を作ればいい。それが信仰。
2ヶ月ほど前に、大阪で美容師をやっている青年に会った。「あまり売り上げが伸びないんです。」と言うので、「具体的に祈ってご覧なさい。」と話した。昨日、その青年が「あれから、今日はカット何人、プロー何人と決めたらその通リになります。繁盛しています。」と言っていたので、「当たり前です。」と言った。
10月に下関でセミナーをしたが、後日、分県長が来て「あれからみんなが祈るようになりました。功徳がポンポン出てきました。」と言っていた。ある車を売っている副圏長が、今日はこの車を売ろうと決めて祈ったら売れたそうです。でも利益を祈ってなかったから利益はなかったそうです。「今は利益込みで析っています。」と言っていた。
スナックのママさんが不景気で困っていた。開店前に3時間、「今日の売り上げはこれだけ!」,と決めて祈ると売れるそうです。結果が出るから毎日の商売が楽しくてしょうがないと言っていた。ある婦人部の方は、息子が5年前に家出して行方不明になり、どうしても見つからなかったが「ようし!祈って見つけだそう!」と決めて祈った次の日、北海道の警察から電話があった。免許証の書き換えが遅れたため、息子の身元確認の電話だった。元気でいることがわかったので「探しにいこう!」と思ったところに息子から「5年間も心配かけてごめんね。でも元気で頑張っているから。去年学会に入会して男子部で頑張っているから。」と電話が入ってきて、3日目に見つかってしまった。
功徳の出るのは当たり前。出ないのがおかしい。これを『信心の正常化』という。祈りは叶う。祈ってないから叶わないだけ。信ずるとは疑わないこと。
どうしたら疑わないか?自分が体験したことは疑わないから信じる。この体験は活動体験ではなく功徳の体験。活動体験ではだめ。活動体験ばかりいっぱいあっても、功徳を受けなけれぱ不信になる。今は活動体験止まりが多い。かえって不信になる。功徳の体験が出れば信が深まって「もっと頑張ろう!」となる。空のボートは波が来ればゆれる。風が来ればひっくり返る。大きな石を積めば船がグッと沈んで動かなくなる。同じように大きな体験をすれば、信が深まる。体験がない信仰は観念だから何かあったら疑ってしまう。体験があれば何があっても疑わない。小さな体験でもたくさんすれぱ同じ。信が深まる。
最近、2世3世が増えた。2世は生まれつき惰性で、何となく信仰しているから体験がなく、信心が観念的。やらされている信仰だから重荷で苦しむ。かわいそう。これを『2世症候群』という。子供に勤行を強制してはいけない。信心嫌いになる。子供だって悩みがあるのだから、信心を教えるのは大事。「こうなりたいと祈ってごらん!そうなるよ!」と教えればよい。決意して祈らせれば体験ができるから信が深まって、放っておいても大丈夫。「やらなきゃダメ!」と言ってはいけない。やらされた信仰は信仰ではないから功徳はない。先生は、「勤行を強制すると信心嫌いになるよ。信心の好きな子、学会が好きな人を育てよう。」と言われた。結構押しつけている場合が多い。そして嫌われている。自分で決意しなければ信心ではない。決意から入れば信心、形から入れば情性。決意してやらせれぱ功徳がある。無理矢理やらせたら功徳はない。2世が体験を持てば強い。体験のない2世は弱い。
どうしたら体験できるかといえば、具体的に祈って動くこと。そうすれば必ず体験ができるから信が深まって「もっと頑張ろう!」となる。人材育成・新入会員をどう育てるか?功徳を受けさせること。喜んで活動家になる。活動を押しつけたら潰れてしまう。信心を教えて功徳を受けさせること。今、あまり功徳を受けていませんね。体験発表というと新入会員ばかり。古い会員はこんなに頑張っているのに体験がないから。やってることは間違っていない。でも信心が惰性、活動が義務になっている。一念が間違っている。先生は、「信心が惰性になったら退転だよ。」と言われた。頑張っていても退転。どういう時が情性か?10項目ある。
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河合師範 続き
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2009-11-18T11:01:00+09:00
2009-11-17T17:25:27+09:00
2008-11-26T23:59:50+09:00
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学会
情性とは
一.信心の上での決意・目標が曖昧なとき
二.勤行しているが具体的祈りがないとき
三.勤行・活動が受け身になったり義務的になっているとき
四.信心のことで愚痴や文句が出るとき
五.信心の歓喜や感動・感謝が感じられないとき
六,求道心が弱くなっているとき
七.仕事や家事がおろそかになっているとき
八.悩みに負けて落ち込んでいるとき
九.広布の使命感がなくなっているとき
十.幹部としての自覚や責任感が薄れているとき
ひとつでも当てはまれば惰性。惰性は空回り。やっていることは間違ってないのだから一念さえかえればよい。自分のために信仰すること。変わるために信仰すること。いろんな打ち出しは間違っていない。これは広布の共同目標。ノルマと受け取るから苦しくなる。功徳を受けるために頑張ればよい。そうすれば正しい。先生は、「信心は義務じゃないよ。幸せになる権利だよ。自分が決意して自分が動いた分だけ自分が得するんだよ。」と言われている。自分のためだから喜んで頑張れば功徳がある。しようがないから頑張ったら惰性で空転する。形は同じでも結果はえらい違い。幹部にほめられても、御本尊にほめられなければだめ。今は幹部公認・御本尊非公認になっている。功徳がないということは仰本尊に通じてないということ。これではつまらない。御本尊に認めてもらうのが信心。功徳を受けない信心ともうからない商売はやめることです。
信仰とは夢があり、希望があり、ドラマがあり、歓びがある。こうなればいいなぁというのが夢、こうしよう・こうなろうというのが希望、その希望を具体的に強く祈れぱ、その希望が実現する。それが信仰。うんと夢を持って、その中からまず具体的な希望を立てて、祈って実現していく。次にまた夢を希望に変えて祈って実現していく。次から次へと夢を希望にし、実現していくための信仰。頑張っていればいつか実現するのではない。決めて祈らなければ実現しない。
この前、大田区での会合終了後に、1人の地区部長が来て、「10年前に話を聞いて信心で変わろうと決意しました。当時、貧乏のどん底で仕事もなかった。本気で信心で変わろうと決めた。途中いろいろあったが、今、43人使って運送会社をやっています。ちょっと変わりました。」と言っていた。信心で変わろうと思い続ければグングン変わるのが信仰。そのための信仰。いつか変わるのではない。頑張っていればよいと思って功徳を受けることを忘れていませんか?それではつまらない。戸田先生は、「祈りを叶え、夢を叶え、誰よりも幸福になっていくための仏法である。人生を勝利するための仏法である。祈りが叶ってこそ真の仏法である。」と言われた。
幸せになるための信仰。祈りを叶えるのが信心。戸田先生は、「現代の人間は非常に欲張りでありながら、成仏という絶大な利益を願わない点においては、無欲とも愚かともいうより他はない。私どもは大いに欲張って生きていること自体が嬉しくてしようがないという絶対的幸福の境涯を、我も開き友にも開かせていこうではありませんか。」と言われた。もっと頑張りましょう。うんと欲張って、何を願っても良いんです。人の不幸は祈ってはいけませんが、それ以外は何を祈ってもよい。あれもこれも願いを叶えて、その歓びを分けてあげましよう。それが広宣流布。功徳が無くて人に言えますか?。それは詐欺。仏法を語るのではなくて信仰の歓びを語ること。歓びが伝わる。
御書に、「喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり(P.334)」とある。嬉しくてしようがないからつい「仏法はすごいよ」と言ってしまう。これ.が本当の折伏。功徳をうんと受けましょう。小遣いがないのに人におごってあげられない。功徳をうんと受けて分けてあげましょう。けちはだめ。大阪の人はけちではないはずなのに、最近随分けちになりましたね。功徳を受けることを忘れている。それでよく頑張りますね。功徳を受けるために頑張るべき。先生が「皆さんの健康・長寿・幸福・裕福を祈ってますよ。」といつもおしゃる。健康・裕福になることが先生に応えること。「こんなに幸せになりました。そしてみんなを幸せにしました。」と報告すれば、先生はうんと喜んでくれる。「頑張ってます。でも変わってません。」では、先生は悲しみます。今は先生を悲しませている。先生は幸せの指導者・広布の指導者。功徳を受けない信仰は間違った信仰。惰性と義務になっている。ギアさえはいればワァっと変わる。
あるB担が、「活動をすれど活動をすれど我が境涯少しも変わらず。」という歌を作った。これを『啄木型信心』という。頑張っても惰性では変わらない。惰性だと気がついて、何でも祈るようになったら何でも叶うようになった。去年の暮れに洗濯機が壊れた。そこで御本尊に「洗濯機が壊れたから新しいのが欲しい。できれぱピンクのが欲しい。」と祈った。1時間ほど唱題したら近所のB担さんが来た。雑談の中で洗濯機の話をしたら「じゃああげようか。」と言う。相手はマンションの管理人。最近は若い人が引っ越すときに面倒くさいので置いていってしまうらしく、「たくさんあるからいらっしゃいよ。」と言われて倉庫に行ってみたら、新品同様のピンクの洗灌機があった。1時間で叶ってしまった。何でも叶う。
「白い良い猫が欲しい!」と祈ったら、白い猫が迷い込んできて、飼い主もわからず居着いてしまった。このあいだその猫が歳で死んでしまった。「同じ猫が欲しい!!と祈った。ペット屋さんに見に行くと十五万円した。「二万円でください!」と祈った。インターネットを見ていたら「猫あげます」と出ていた。電話をかけたら同じ種類の猫だった。「赤ちゃんができて飼えなくなったからあげます。」とのこと。そして横浜から東京まで連れて来てくれた。そこでお礼に二万円あげた。願い通り、2万円で手に入れてしまった。何でも叶う。これが普通。
一昨年の2月に姪を折伏した。美大の生徒。おばさんが願いは叶うよと言ったから、90項目祈ったら3ヶ月で全部叶った。今100項目祈っている。どんどん叶うから嬉しくてたまらないと毎日3時間題目をあげている。それを見て嬉しいからどんどん折伏ができる。その姪の変わった姿を見るとみんな友人が入信する。
去年の2月に「パリに行って美術館巡りをしたい」と祈っていたら、たまたま知り合った画家が「仕事を手伝ってくれるなら一緒に連れてってあげよう。」と、費用は全部向こう持ちで2ケ月間ただでパリを回って帰ってきた。何でも叶う。これが普通。それを聞いた婦人部の幹部が「私も祈ろう!」と100項目祈りだしたら、どんどん叶い、「あれ?祈りって叶うんだ。」と言っていた。
祈りは叶って当たり前。祈ってないから叶わない。もっと欲を出して叶えましょう。頑張るばかりでは「仏道苦行」で楽しくない。『成果の無間地獄』です。功徳を受ける連続チャンスと受け止めれば功徳を受けるチャンス。やらされると思ったら苦しみになる。
北海道でおもしろい話を聞いた。青年部時代は隊長で地区幹事さんで、漁師だったが今は福運がついて船を何隻も持っている漁会社の社長。一昨年・去年の鮭漁が不漁で大赤字で困っていた。北海道漁村部長が指導に行って、「鮭が獲れないと言うけど、鮭がいないんじやないでしょ?来ないだけでしょ?呼べばいいじやないですか!海に国境はないんだから。」と言った。それから本気で祈ったら、それまで20匹しか獲れなかったのが300匹獲れたそうです。大漁が続いていっぺんに黒字になってしまった。信心は簡単です。商売でお客さんが来なければ強く祈って呼べばいいんです。その上で努力と工夫をすればよい。
信心していれば何とかなるというのは最高の迷信。祈った分しか叶わない。御本尊が決めるのではなく自分が決める。だから「心こそ大切なれ」である。
どういう心で頑張るかである。仏法に形はない。どうやって説明するのか?自分が体験をして、生活・生命が変わった実証で相手に納得させるしかない。それが私たちの使命。 湧出品に「地湧の菩薩というのは如蓮華在水」とある。蓮の花は泥沼で咲く。泥沼が深いほど大きな花が咲く。娑婆世界は泥沼。その中で功徳の花を咲かせ、幸せの花を咲かせ、生命の花を咲かせ、その実証で人を救うのが地湧の菩薩。だから功徳を受けで証明をしなければならない。今は花がしおれている。これでは蜂も来ない。うんと花を咲かせましよう。そしてみんなに花を咲かしてあげましょう。それが広宣流布。私たちは自分のためにだけ信心しているのではない。広宣流布を願って信心をしている。広宣流布とは不幸の追放運動・幸せの拡大運動。「悲惨の2字を無くそう!」と戸田先生が言われた。不幸を無くして幸せを広げるのが広宣流布。具体的には地域の世帯増と功徳増。本部であれ支部であれ、それをまず祈ること。「25の地区を30にしよう!180部の新聞を200部にしよう!地域の広宣流布を進めよう!幸せを拡大しよう!」と祈ることが広宣流布を祈ること。成果増は祈っていても世帯増は祈ってないから世帯は増えない。成果は黒字だが広布は赤字。これを『広布の粉飾決算』という。これではそのうち破産する。幹部は成果の責任者ではない。今は責任者それも下請け・成果の現場監督になっている。それではつまらない。幹部はその地域の幸せの責任者。「我が地域のみんなを幸せにしよう!」と祈ればそれだけで福運がつく。世帯も増える。世帯は祈らなければ絶対に増えない。その上で、成果は世帯増のための手段、広宣流布を祈った上で成果を祈るのはよい。まず広宣流布を祈ろう。その上でそのためのいろいろな活動の目標を祈るのは大事。これらは全部手段。成果は目標ではなく手段。成果が目標になっているから重荷で苦しくなる。
ブロック1の目楳が出る。これを『B1地獄』という。プロック1がノルマだと思うから重荷になる。ノルマではない。最低ライン。「ブロックで1人くらい不幸な人を救おう!」ということ。これはB担が決意すればおしまい。B長はまあ決意しませんから。B担が決意して折伏ができだとしても功徳は山分けではない。先着1名だけ。みんな「ブロツク1できますように。私はできませんけど。」と祈っている。これは変。これでは誰もできない。「私がやります!」と決意すればできる。
地区幹部が1世帯以上やると決意すれば地区5は簡単にできてしまう。簡単にできるのに、みんな決意しない。幹部はやらせる信心をしているから功徳がない。信心はみんなで頑張るものではない「1人立て!」です。「私、頑張ります!」という人に功徳がある。そういう人がたくさん生まれれば、たくさん成果が出て功徳をいっぱい受ける。私たちはいろいろな活動をしている。みんなを味方にする運動。みんなを折伏する運動ではない。みんなに学会・仏法を理解させていく運動。誰でも彼でも折伏する必要はない。誰でも彼でも味方にするのは構わない。ここを間違えないこと。今悩みがない人・悩みがあっても悩んでない人を折伏すると嫌われる。結構そういう人を押し込んで折伏しで嫌われていませんか?友達を無くしている。健康な人に薬を飲めと勧めても嫌われる。「いい薬があるから、病気になったら飲みなさい。」と教えておくのは構わない。そこで止めておけぱよい。そこを押し込んでいる。悩んでいる人・不幸な人がいたら救ってあげること。それは相手を救ってあげるためであり、成果のためではない。折伏は簡単。ただ1つのコツは、「不幸な人を救わせて下さい」と祈ること。そういう人がいればその人のことを祈ること。いなくても祈ればチャンスは来る。
法華経の法師品に「素直に法を聞かせにやるよ」と2ヶ所も書いてある。これが方程式。強く祈れば必ずそういう人にぶつかる。折伏は簡単です。誰でもできる。成果のためにやらないこと。成果はこっちの都合。相手のためにやること。「不幸な人を救って功徳を受けさせて下さい」と祈ること。不幸な人を救うから功徳がある。宿命転換できる。福運がつく。成果をあげるからではない。苦し紛れの分世帯では功徳はない。功徳がないのでつまらない。後には不信が残る。今から祈れぱ秋には間に合う。析伏には方法がない。これは戸田先生の指導。「折伏には方法はないよ!祈ることだよ!」と言われている。成果ではなく、「不幸な人を救おう!」と祈ること。必ずできる。不幸な人がいたら仏法の説明をしないこと。「あなたの悩みはどこから来るのか。謗法から・宿業から来るんです間違った宗教から来るんです。間違った信仰を捨てて正しい信心をすれば、あなたの悩みは解決しますよ!やってご覧なさい!」と言えばいい。悩みに切り込むことと、確信を持って言い切ること。それと体験発表を聞かせること。説得カがある。仏法を聞いても分からないのだから言わないこと。信仰の歓びを語ること。これが一番魅力がある。体験がないから相手が魅力を感じない。同じ悩みの体験が一番説得カある。確信を持って言い切ること。折伏には教学はいらない。相手の悩みが分かれば誰でも折伏できる。
戸田先生は「広宣流布は豆腐のおからだよ。」とよく言われた。おからは豆腐の絞りかす。おからは目的ではなく結果。豆腐を作ると結果としておからが出来る。折伏して自分が功徳を受け(豆腐1個)、相手も功徳を受ける〈豆腐がもう1個)。結果として、結果が1(おからが1つ)、豆腐が2つにおから(成果)が1つ。今は、おからの専門が多い。寝屋川おから店になっている。みんな栄養失調。うんと豆腐を作って、その結果、うんとおからが出来ればいい。成果は目的ではなくて結果。幸せの拡大が目的。不幸な人を救って、功徳を受けて、広宣流布が進めば結構なこと。おから専門店ではダメ。寝屋川豆腐店にしましよう。戸田先生が「あんたがた、おいしいところを食べて、おからをこっちへよこしなさい。」と言われていた。豆腐をいっぱい食べて栄養をとりましよう。
いまは栄養不足でみんなヨロヨロしている。みんな疲れています。それでよく頑張りますね。世界一の経済大国日本がガタガタになっている。日本自体が破産状態。企業も個人も、お先真っ暗。
なぜこうなったのか?日本の発展は広布の前進とともにあった。戦後の歴史をみると、広布が進んでいるときは景気がよい。広布の妨害が入ると必ず不況になる。この繰り返しだった。でも不況はせいぜい2年だった。今は10年続いている。
平成大不況は平成2年から始まった。平成2年7月16日、日顕がC作戦を立てた。学会を切って広宣流布をやめると決めた。その後から今の不況が始まった。これを「日顕不況」と言う。だから謗法は怖い。最大の根源は謗法。日顕宗の大謗法が不幸の根源。阪神大震災も謗法が根源。だから日顕を倒すことが大事。全部やられているんだから関係ない人はいない。
しかもその後、山友の策謀で、自民党がくっついて学会をいじめた。だから日本の福運は尽きてしまった。もう日本は政治でも経済でも救えない。先生は「もう1回広宣流布をしよう!」と何回もおっしゃっている。
今年の年頭にもおっしゃった。「いまこの世の中が乱れている。だからこそ人々を目覚めさせるチャンスなのである。日本人の心に強い動執生疑が起こっているからである。“大悪起これぱ大善来る”である。この1年を社会の大悪を大善に変えていく年として参りたい。我らの勝利以外に日本の夜明けは断じてないからである。と。創価学会が勝って広宣流布を進めるしか日本を救う道はない。だから「不幸な人を救い、日本を救おう。そのために広宣流布をやろう!」と先生はおっしゃっている。先生と一緒に広宣流布をしましょう。広宣流布は最大の口マンです。不幸な人を救い、日本を救い、世界を救おうというのですから、こんなロマンはない。そのロマンが今は手の届かない高級メロンになってしまっている。そうではなく、1人の人を救っていくことが広宣流布。それが日本を救うことになる。だから不幸な人を救うために折伏してきた。
今、支援活動になっている。先生は、新人間革命の「立正安国」の中で、「政治不信を招いた原因は何か?政治家が民衆の幸福、人間という原点を忘れたからだ。だからといって国民が政治に無関心になって監視を怠れば、政治の腐敗はさらに進んでいく。」と言われている。腐敗が進んで不信が進んだらさらに政治が悪くなっている。
「人間のための政治を実現するためには、1人1人が具体的に行動しなければダメだ。」とも言われている。また、「創価学会は何の野心もない。ただただ民衆を幸せにしよう。日本の国を平和な文化園家にしようという崇高な精神である。
広査流布をやらねばならない。民衆を断じて幸福にしていくためには、前進する以外にない。難に耐え、苦労に耐え、一切に耐えながら、人を救っていく以外にない。これが仏法者の精神だ。」と言われている。だから何があっても広布を進めるしかない。今度の支援活動もその一端。よくするためにやる。学会のためにやるのではない。
公明党のためにやるのでもない。学会の勝利がみんなの勝利だから勝たねばならない。昭和31年の大阪の戦いの時に、公明党も政策も何もなかった。あったのは「政治を民衆の手に取り戻そう」ということだけだった。信心で勝った。今回も同じ。「今の政治では、みんなが不幸になってしまう。もう1回、政治を我々の手に取り戻そう!」ということだけでよい。そう決意して祈れば、心をぶつけたときに相手が動かない訳がない。
みんなを昧方にしながら、日本のみんなを救うために、私たち1人1人が自覚して起ちあがったときに、政治が変わらない訳がない。公明になってスッキリした。今度は学会の勝利が公明の勝利。公明が勝たなければ、参議院で自民党が過半数になってしまう。そうなるとやりたい放題になってしまう。公明が勝って、自民党の過半数を阻止して、自民党に鉄槌を加えなければ民衆の勝利はない。そのための戦い。
1人1人がその自覚をしてみんなを味方にする戦い。具体的に「この人を味方にしよう!」と強く祈れば、昧方に出来ない訳がない。先生は「大事なことはただ1つ、勝つことである。人生も広宣流布も、勝つか負けるか、この2つに1つだ。」と言われている。「民衆勝利のために、1人1人が勝利のために、何としてもこの戦いに勝とう!」と決めることが大事。そして12月の座談会では全員が功徳を受けて、幸せコンクール、成長コンクール、大勝利コンクールをやろう。今は、12月の座談会は反省コンクールになっている。それではつまらない。
先生は「1人1人の勝利が民衆勝利だ。」と言われている。信心で立ち上がればみんなが功徳を受ける。ただ唱題ではない。祈りです。「あの人もこの人も味方にしよう!そして広宣流布を大勝利させて自分も勝利しよう!」という強い祈りで見事な勝利をして、見事な自分自身の勝利の1年間にしていきましょう。そういう意味で、信心の基本をもう1度確認をして、今日からまた前進をしていきましょう。
平成十年六月二日寝屋川文化会館にて
河合師範
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怪文書委員会報: エセ科学を見破れ!~私の「簡易判断基準」(改訂)
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2009-11-11T11:11:00+09:00
2009-11-09T17:12:53+09:00
2006-03-16T22:35:21+09:00
superserver
コラム
<怪文書に関してはここを参照>
こういった怪文書を見破るには、ある程度の科学的知識や洞察力が必要だ。
エセ科学を扱かうBLOG等も参照して勉強して欲しい。
しかし、すべての学問に精通するのは不可能。
だまされないために、洞察力の方を鍛えた方がてっとり早そうだ。
ここで、私が編み出した「エセ科学簡易判断基準」を紹介したい。(えらそー)
基準は簡単。
論理が一方的か、そうでないか(公平か)の違いを見分けることだ。
真の科学者は、真理を追究するから、自己の考察に徹底的に反論を試みる。
また、自己の結論に対し、考えられる問題点を具体化する。研究がより進むように願う態度か。
多くの科学的「まじめ本」には、そういった態度が共通してみられる。
思うに、偉大な科学者ほど、「科学の限界」を痛感するが故にか、自己の研究を賛美せず、問題点にふれておこうとする態度が見られる。
一方、エセ科学は、自分の主張を繰り返し、賛美し、絶対視し、それが包括する問題点については触れようともしない。
たとえば、昨今、「~が、ガンに効く」といった本が多い。
それがたとえ自然食品であろうと、副作用の可能性や、効用に対する疑問点、諸問題も必ずあるはずである。
その記述があれば、科学的態度と評価できるが、これらほとんどの宣伝本は、「いいことだけ」を書いている。
理由は、著者が「真の科学者」なのではなく「儲けの当事者」だからだ。
真実を追究しているのではなく、利益を追求しているからだ。その態度は子供と変わらない。
子供が、おもちゃを買ってもらおうと、親にねだる時…
「大事にするから」
「ちゃんと片付けるから」
「いい子になるから」
と、普通は言う。
しかし、真実をみすえて、
「たぶん、1週間ぐらいであきちゃうかも」
「来年には、別のシリーズが出るから、今年一杯ですてちゃうかも」
「今日は片付けやるけど、明日になれば忘れちゃうんだよね」
などとは、思っても言わないはずだ。(子供は真剣にねだる故に、諸問題に考えが及ばないかもしれないが…)
食器洗い機の宣伝を見ると、「水道代が~円オトク!」
という文句が目立つが、同時に「電気代がどれだけ上がるか」
に言及している広告には出会ったことがない。
かなり熱いお湯を使って洗ってくれるのだから、かなり電気を食うはずなのだが…
未検証だが、もしかして、水道代が減ったお金より、電気代の方が高いのでは?とまで思ってしまう。
というわけで、宣伝と真実は、必ずしも一致しない。
従い、宣伝的態度のある主張は、私は科学とは思わないし、容易に信用しない。
これが私の「簡易判断基準」である。
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案件ごとにモードを設定するとスッキリ
http://supersaba.exblog.jp/11689121/
2009-08-09T06:29:00+09:00
2009-08-12T04:57:26+09:00
2009-08-09T06:28:50+09:00
superserver
仕事
気合だけの上司は言うだろう。「どんなに環境が悪くても、チャンスが訪れる時が来る」
確かにそうなのだが、チャンスが来るまでは、より成果の出易い案件を進めたほうが賢い。
「待ちモード」や「あきらめモード」は、決して臆病者の「逃げ」ではない。
チャンス到来時に「しめた!」と、案件の再構築に移れるのが「待ち」であり、既に「逃げ」てしまっている場合、なかなか案件にもどれず、あるいはチャンス到来にさえ気づかない事が多い。
そこで提案したいのは、案件ごとに力を入れるかどうかのモードを細かく設定する事だ。最低5段階ぐらい。
1.「強い攻め」モードでは、時限を定めガンガン攻める。他の案件をないがしろにしてでも攻める。コストがかかり長期的には使えないが、短期集中で、成果が高確率で見込める。
2.「弱い攻め」モードでは、他の案件に波及しない程度に攻める。通常の仕事のモードがこれ。
3・「積極的な待ち」モードでは、すぐに成果を得られる可能性は薄いが、環境を作りつつ、外堀を埋める作業を行い、チャンス到来を待つ。
4.「消極的な待ち」モード。非常に可能性は低いが、定期的に情報収集は行い、タナボタ式にチャンス到来があれば案件を再開できる環境は残しておく。コストはほとんどかからない。
5.「あきらめ」「逃げ」モード。案件の実質破棄。万が一チャンスが到来しても「あれはあきらめたのだから、もうやらない」と言い切れる覚悟があればこのモードに移行し、他の案件を模索する方が価値があるかもしれない。
そして、大事な事は、定期的にモードを見直す事である。当然モードは仕事の優先順位を作るから、誤ったモードで長期間仕事をすると、最適な結果が得られないことになる。
あ、環境をも変革する力と不思議な法を持っている人は、5番のオプションは無しにしてもOK(笑)]]>
ネット上とはいえ、「勝利の九項目」を自分にあてはめ、がんばる人が勝ち。
http://supersaba.exblog.jp/11604805/
2009-07-27T23:19:00+09:00
2009-08-12T05:59:30+09:00
2009-07-27T23:19:48+09:00
superserver
ネット論
・朝早く来た人は、勝ち
ネットのせいで寝不足になったり、仕事に遅れるようではダメ。ネットを使え。使われるな。
・勤行する人、題目をあげる人は、勝ち
すべての縁を良い方向に捉え、自己の成長の為に生かせ
・健康で生き生きと仕事をする人は、勝ち。頑健になろうと工夫して、すべてを成し遂げようとする人は、勝ち
ネットのせいで夜更かしや、だらだらとした生活になるようなら負け。メリハリを!
・調和して、チームワークをとれる人は、勝ち
ネットとはいえ、同志とのチームワークをないがしろにしてはいけない。
・後輩を大事にする人は、勝ち
ネット上で知り合った先輩・後輩も、「何かの縁」と前向きに活かす智恵を。オフ会をやろうってわけじゃありません(笑)
・後輩や女性を、怒鳴ったり、いじめたりする人は、幹部の資格なし。理解し、包容し、励ます人が、勝ち
ネット上でもリアルでも、同志をいじめたりする人は絶対に負け。
・智慧のある人、力のある人、努力をする人を大事にする人は、勝ち
狭い修羅界の虜になるな!がんばっている人を羨み、揶揄するような心の萌芽を潰せ。
・外交の天才たれ!いずれの会社でも、団体でも、その人がいれば、勝ち
ネットの世界も外交は外交。味方を増やすにはどうしたらいいかを常に問え。
・曖昧な態度は、敗北。『良い人は良い人』『悪人は悪人』として、見極めていく人が、勝ち
要領のいい人間、卑怯な人間は、厳しく見ていかなければいけない
会員だから皆同志、という事無かれ主義では敗北。悪は悪、と言い斬っていく言論を。
トラックバック→創価王道「インターネットの可能性」
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20090808/p1]]>
あのサイトをクリックするだけで悪因を積む恐ろしさを、御書と先生の指導を拝し証明してみるテスト
http://supersaba.exblog.jp/11602653/
2009-07-27T00:00:00+09:00
2009-07-29T21:48:22+09:00
2009-07-27T19:22:03+09:00
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ネット論
今回はその逆。くだらないサイトを読むことは、普通に考えて時間だってもったいないんだけど、それ以上に罪業を積んでしまう愚かさを。
(創価王道の記事「フィールドを選べ」もあわせて読んでいただけるとありがたい。)
まず、大聖人のお言葉を拝したい。
「相構え相構えてとわりを我が家へよせたくもなき様に謗法の者をせかせ給うべし、悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり」(日女御前御返事p1244)
アンチサイトや、成りすましが跋扈する掲示板には近寄るな!との警鐘ともとれる。
そういう所は、いわば「悪鬼乱入の寺社」とも言えよう。
では、「ちょっと見てこよう」と、興味本位で覗く行為は御書にはどう説かれるのか。
「一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや」(日興遺誡置文p1617)
行ってはならない、との厳しい仰せ。
皆様ご存知の通り、悪徳週刊誌などを「買わない」ことは、謗法への布施を止めることになる、という認識はある。けれども、悪徳HPをクリックするだけで、そのHPは「人気がある」ことになってしまう事実・・・「見るだけで」応援になっている事実は意外と顧みられていないのではないだろうか。(観察行為自体が、対象に影響を及ぼす点を、「シュレーディンガーの猫」を用いながら解説し、WEBがもつ新しい哲学的枠組みに関して考察するのはまた今度ね)
では、先生は、くだならいネットを見ている人に、どう指導されるだろうか。もちろん具体的には触れられていないが、想像する事はできる。
以下のスピーチが参考になるだろう。
名作を読め!
一、私の青春時代は、トルストイ、ユゴー、ホイットマン、チェーホフ......あらゆるものを読みました。
読書を怠れば、戸田先生が許さなかった。
「大作、今、何を読んでいるのだ」
「それは、どこまで読んだのだ」
「では、その内容を言ってみろ」と。
矢継ぎ早に追及され、ごまかそうにも、ごまかしようがありません(笑い)。
当時、私は、苦境にあった先生の事業を支えて、朝から夜中まで、くたくたになるまで働きました。
それからです。私は読みました。
皆も読まなくてはいけない。いい小説を。いい本を。
くだらない雑誌などを読んでいる者がいると、戸田先生は烈火のごとく叱られました。
現実の課題と必死に格闘しながら、心は広々と、世界の文学に学んでいくのです。
(第4回全国青年部幹部会 2007年12月)
先生は、「人生は早いよ。だから私は、一瞬一瞬が真剣勝負だという思いで戦っているんです」と。
WEBという便利ではあるがちょっとややこしいツール。一クリック一クリックが真剣勝負!というぐらい有意義に使って行こう!
え、マウスが壊れるって?
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ぽえむ♪ 「ガラス貼りの部屋」
http://supersaba.exblog.jp/11565170/
2009-06-10T00:00:00+09:00
2009-07-22T16:03:51+09:00
2009-07-22T16:01:44+09:00
superserver
ネット論
ガラス貼りの部屋。
しかし互いの顔は見えない。
全ての会話は筆談で、
内容は全国に中継され、
記録は長く残る。
外では敵や反対者が耳をそばだて、
部屋にも幾人か紛れ込んでいる。
少しの行き違いをつかみ、
彼等は巧みに煽り出す。
仲間だと思っていた人に、
裏切られることも多い。
弱者だと思わせて、
虎視眈々と機会をうかがう輩もいる。
これが、ネット掲示板である。
皆さん気をつけましょう(笑)
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責任をとらない「ひとのせい」集団の力学的仕組み、あるいは戦争責任は誰にあるか
http://supersaba.exblog.jp/11068779/
2009-05-30T05:30:00+09:00
2009-07-22T15:43:46+09:00
2009-05-25T17:33:50+09:00
superserver
書きかけ
力学的に言えば、ドミノ倒しのドミノが、円形に倒れている状態だ。想像して欲しい。
一直線なら、どこから倒れたか「スタート地点」がわかるものの、円形となっていては責任の発端がわからない。
「じゃぁ責任はどこにもないんだよ。」
そういう結論も考えられよう。
では、全部のドミノが倒れている、この悲惨な状況は何故?
地震でも起こったか?どこかのドミノを誰かが触ったのか?
そんな詮索をしても意味が無い。
悪いとすれば、全員が円形に並んでいたから悪いのだ。つまり、「他人から流れてきた力=責任を、自分が受け止めずに次の人に流すという隊形に並んでいて、ちょっとの力で全員がぶっ倒れる準備完了!」なことが悪なのだ。
他人とかかわりあいを持たない=ドミノが他と触れないようにスカスカにならぶ、という事は、現代社会では無理だろう。
であれば、「倒れられても、自分は倒れない」という人が必要である。山のように不動なドミノ。鋼のドミノ。瞬間接着剤で床にくっついたドミノ。
方法はどうでもいい。
苦しくても、つぶれず、他に責任を転嫁しないドミノがいれば、災厄は防げるはずだ。
一人では心もとない。さりとて全員がそうなるのは難しい。
学会の、名も無き庶民は、そういう人間の織り成す山脈であると信じる。
この仕組みを、具体的に第二次世界大戦の戦争責任にあてはめるとどうなるか。
この続きはまた数年後にでも(笑)
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記憶力がいい人は、記憶をしない人である。
http://supersaba.exblog.jp/11039278/
2009-05-26T18:01:00+09:00
2009-07-08T04:46:12+09:00
2009-05-22T18:01:34+09:00
superserver
仕事
あなたは、記憶力がいい方ですか?
もの忘れが激しい方ですか?
この年になって気づいたのだが、「あ、この人は、仕事が出来る人だなぁ、何でもよく憶えているなぁ」と思って見ていると、たいてい、情報整理やメモがうまい。大事な場面では必ずメモをしている。
そして、そのメモをほったらかしにせず、丁寧にまとめている。
学校でいえば、「復習」にあたる。
時に、「何でそこまで憶えているの?」と思うほどの記憶力を見せ付けられることがある。数年も会っていない得意先に、「たしか~~が趣味でしたよね」などといわれると、うれしさも去ることながら、「どうして憶えているのか?」と脳味噌のしくみを疑ってしまう。
しかし、よく聞くと、(しぶしぶ教えてくれたが)彼は全ての顧客の特徴を記憶しているのではなく「記録」しているそうだ。
顧客の名刺をエクセルでまとめ、話をするたびに「これは」と思うネタを書き留める。行の横幅は伸びていくが、顧客とそう毎日飲んでいるわけでもないから、年に三度の相手なら10年つきあっても30列しかないというわけだ。そしてそれを再会前に5分でも10分でも見直して頭に叩き込む。「確か前回お会いしたのは、桜のころ、あの居酒屋でしたねぇ」と、すんなり会話に入れるというわけ。
これは学校では「予習」。
種明かしをされれば、長期記憶が不得意の私にもできそうだ。
また、こういう人達に色々聞いていると、仕事の全てを覚えているのではなく、うまく情報を取捨選択して、「これは記録しとけばいい」「これは忘れてもいい」「これは大事だから記憶しよう」と、「記憶」「記録」「破棄」と順序をつけているようだ。
私などは、メモもせず憶えたつもりになってうっかり忘れてたり、せっかくとってもメモをなくしたり、メモをとったことさえ忘れる、凡人である(笑)
天才的・芸術的・鬼のように仕事を成し遂げる猛者の方々には遠く及ばないが、「予習復習をやる」という簡単なことならできそうだ。
ここで再度。
あなたは、記憶力がいい方ですか?
もの忘れが激しい方ですか?
そんな事はあまり関係ないのかもしれない。
人間の脳などうせ忘れるように出来ている。忘れたくない事は、メモやパソコンというツールをうまく使えるか。予習復習という地道なことをやるかやらないか。それがいわゆる「記憶力」って言われるシロモノなのかも。]]>
読解に特化した英語学習法の提案
http://supersaba.exblog.jp/11068932/
2009-05-25T17:51:00+09:00
2009-06-05T15:49:31+09:00
2009-05-25T17:51:24+09:00
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その他
そんなわけで、私の経験上、読解に有効であると思う学習方法につき提案したい。
注: 読解に際しては「中学程度の文法」を習得していないと難しい。関係代名詞や不定詞がイマイチ理解できない人は、まずは中学英語をおさらいしてみよう。
中学英語の勉強法は・・・
とにかくがんばる!(笑)
1 「翻訳と精読」
英語の文章を読み、わかったか・わかっていないか。これが結構厄介。
「何となくわかった」つもりでも、「ちょっと自信ない」という場合がある。
たいてい、理解があやふやな場合は「何がわからないのかわからない」わけで、必ずといっていいほど、どこか誤解や理解不足が生じている。
そんな時、日本語に翻訳してみると、訳がぎこちなくなる。その部分に誤解があるはずだ。
これを一つずつつぶして行く作業をおすすめしたい。
かなり疲れる作業だが、スポーツ選手に筋トレが必要なように、「翻訳」をやらないと、誤解を誤解のまま放置してしまうという怪我の元になる。丁寧に翻訳を続けると、格段に読解力がつく。
翻訳の材料は、NHKラジオのテキストでもいいし、ネットのニュースでもなんでもいいから、「英語」「日本語」が対になっているものを用意してほしい。英語を読み日本語に訳し、それを答え合わせをする、という単純作業でいい。
これを数ヶ月繰り返せば、「辞書さえあれば大抵の英語は読める」力がつくはずだ。
日本語のテキストが無い英語文献も、自力で訳す事は、ためになる作業ではあると思う。ただ、答えが間違っている場合に気づきにくいのが難点。
その場合、非常に頼りになるのがネットだ。ウェブ翻訳を利用したり、その言い回しが実際にどのように使われているかを膨大なネットの世界から検索できるわけだから、こんなにありがたいものはない。
詳しい人に聞く掲示板やコミュニティも最近は発達しているから、そういったものを利用することもできるだろう。
(応用として、そのテキストを今度は日本語から英語に直す演習も付加的にやってみよう。これはもっと疲れる作業だが、英作文の強力な武器となる)
2 「多読」
基本的な読む力がついてきたら、並行して是非「多読」に挑戦して欲しい。
少々のわからない単語があっても、読み飛ばして全体を理解する力も養う必要がある。
ところで我々は、日本語を読んでいてさえ、文章の全てを理解しているわけではない。
たとえば冒頭に「縷々(るる)」と書いたが、意味がわかっていただろうか?(あまり使わない言葉であり、知らない方が平均的だと思う。私も知らなかった…)
このように、我々が母国語で読む時でさえ、読み飛ばしながら、それでいて「理解している」。この力を養うと、大量の英語を見てもアレルギーを起こさなくなる。ざっと見回してナナメ読みする、といった母国語では当たり前のようにやっている作業も可能になってくる。
多読に使用するテキストは、なるべく興味の湧くものがいい。あなたの趣味にそった本やHPとか。
これまたネット社会は便利なもので、どんな趣味でも大抵のジャンルで英語の文章を探すことは可能だ。
これを、「なるべく辞書を使わないで」読んでみよう。
絵や写真などもあるHPの方が、とっつきやすい。
文字通り、趣味と実益を兼ねつつ、スポーツ選手がスタミナをつけるように、コンスタントに英語に接して欲しい。数ヶ月も続ければ、格段に英語がフレンドリーに感じられるようになるだろう。
3 「語彙力」
ここまでは辞書を使うことを前提としてきたが、実用の為にはやはり辞書無しでスラスラと読めるようになりたい、というのが本音だろう。
それには、当然、知っている語彙やイディオムを増やすしかない。これこそが、コツコツやらなきゃいけない作業で、千里の道も一歩から。何千もの単語を一つ一つ覚えていく、途方も無い作業である。しかし、やるしかない。考えている時間があったら、一つずつでも憶えるべきだ(笑)
参考までに、私は、知らない単語が出てきたら書き留めて、「日本語から英語に」できるようになるまで練習するようにしている。
「英語から日本語」を類推するのに比べ、「日本語からその英単語が出てくる」ようになるのは難易度が高いが、それができれば書く・喋るという能動的なスキルになる。
また、逐語的に記憶するのではなく、その単語が持ついくつかの意味をあわせて憶えるほうが得だ。単語にも「顔」がある。似たようなイディオムの、雰囲気の違いをつかむためでもある。
以上、3点の視点から、私が実践している事をふまえて述べてみた。
効果には個人差があるのでどうかご理解を(爆)
ところで、学校で習った簡単な漢字でも、ふと忘れることはないだろうか。
私はPCの使いすぎで「書かない」生活が長く、よく漢字を忘れる(笑)
しかし、不思議と「読めない」という事はない。
考えてみれば、読むという作業は朝のメールチェックから始まって、何かを調べたり、電車の広告を見たり、新聞やTVを見たり、と欠かすことがない。能動的なスキルに比べて、受動的なスキルは失われにくいという事もあろうが、やはり「日常的に読む」習慣が大事だと思う。
あなたが一日に接する日本語の活字の、10%でも「英語」で接するようにしてあげれば、かなり違ってくると思う。あとは工夫次第!
☆最後に☆
仕事上必要だから、英語読解を是が非でもしなければならない、という切羽詰ったあなた!(笑)
切羽詰ったという事は、前回の記事で書いたように語学にとっては非常に好都合である。
是非、「仕事で使う英語」とガップリ四つに取り組んでみて欲しい。
専門的な英語は難しい、と思うかもしれないが、文学等と違い、「専門的であるほど英文構造は単純」であり、読解しやすい傾向がある。なぜなら、専門家の書く文章は「美しくある為」ではなく「理解してもらう為」に存在するからだ。
翻訳をして鍛え、パターンに慣れさえすれば、驚くほど早く、スラスラと読めるようになることは間違いない。
私は商売上、契約書を読む事が多いが、契約書はほぼ定型化しており、誤解を招く表現が許されないため、非常に単純明快である。いくつかの頻出の言い回しを憶えれば、自分で作成することも簡単だ。
むしろ、そういった専門分野のみでよしとしているので、私は文学作品は苦手で、いくつも挑戦しては、挫折している(笑)
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英語は聞き流すだけで…は全くのデタラメ!騙されるな!(訂正・再掲)
http://supersaba.exblog.jp/9856179/
2009-05-21T01:01:00+09:00
2009-05-22T01:58:02+09:00
2008-11-12T02:44:22+09:00
superserver
その他
まず、楽して何かを成し遂げよう、という幻想は捨てなければならない。
無駄を省くことは必要だ。肩の力を抜くことも重要だ。しかし、努力まで省くことは出来ない。
宣伝では、「努力を捨てよ。赤ちゃんは母国語を覚えるのに努力しているだろうか?」といった問いかけがあるが、それは赤ちゃんに失礼だ。
赤ちゃん、いや、赤さん、いや、赤様は、まだ細胞分裂の完了していない脳を総動員して、体の動かし方をお学びになり、全力で言語を習得されているはずだ。それこそ泣きながらだ。
しかも、赤ちゃんの脳は吸収力が違う。なんたってこれからの人生がかかっているから。
我々大人は、とりあえず母国語はできる。切羽詰っていない。だからうまく学ばないといつまでたっても外国語は習得できない。
また、宣伝では「耳を鍛えればいい」「コツをつかめ」と言う。しかし、基本的な語彙力がなければ、何を聞いてもわからないに決まっている。語彙・文法・例文、といった基礎をないがしろにするのはナンセンスだ。
で、偉そうに言っている私自身、英会話は日常程度、語彙力が弱い。読み書きは苦手だ。しかし英語以外にいくつかの外国語を学んできた。英語よりよくできるようになったものもある。(特に火星語…)
私は言語学者ではないが、その経験の中で、私同様、脳みそが硬化してから外国語を学ぶ方の参考になればと思い、気づいた事を書き留めておきたい。(とりあえず英会話を想定。読み書きはまた今度!)
・・・まず、肩の力を抜こう。
「語学」という言葉、これを忘れよう。
外国語を習得することを難しい学問のように捉えるのをやめよう。
また、卑屈になるのをよそう。日本では、英語が出来る人をなんだか偉い人のように崇め奉る習慣がついてしまったが、そんなのは敗戦国の卑しさだ。
どんなに(私のような)田舎モノでも、とりあえず自国語だけはしゃべっている。
しかも、皆さんは、この文章を読んでいる時点で、世界にとどろく高難易度の「漢字」まで知っている「知識人」だ。大いに自信を持とう。
「日本人は、なぜか外国語が苦手」
理由は、簡単。外国の純然たる植民地にならなかったから(笑)
植民地出身の方々は、英語プラス母国語、更に自分の民族語、そしてプラスひとつやふたつの外国語ができる人も多い。できないと生き残れない、というシビアさもあるだろうし、いくつか語学を学んでいると、次がだんだん簡単になってくる。
日本を「中途半端な」植民地にしたアメリカを恨もう(笑)
日本人の性格的な理由について。
一つには、マジメ過ぎる。
持ち前のマジメさから、間違えたらどうしよう、聞き取れなかったら相手に失礼ではないか、
との思いが先行して、なかなか会話を実践できない。
しかし、聞き取れなくても全然失礼ではないことに気づくべきだ。たとえば、道端で外人が一生懸命に日本語で「スイマセーン、ワカリマセン、モイチド?」と聞いてきた場合、いやな気がするだろうか?にこやかに応対できるはずだ。(5回ぐらいまでは)
世界の皆さんも、きっとあなたと同じくらい、ガマン強いはずだ。だから、3回までは聞き返せる。そう信じよう。
また、少しは英語を知っているはずなのに、「完璧にできないなら、話す資格は無い」と思い込んではいないだろうか?
言葉をしゃべるということは、プロの演奏会ではない。覚えたての初心者が、堂々と話す権利がおおいにある!
とにかく言葉は使って覚えるしかない。
カタコトでも覚えたら、胸を張って「しゃべれますよ!」といおう。そして、堂々としゃべろう。だから、私はいつも「10カ国語ぐらいは喋れますよ」と嘯く(笑)
また、マジメさ故に間違えることを恥と嫌う。
しかしながら、間違えたり、恥ずかしい思いをした時の表現こそ、心に残り、忘れないものだ。
間違えた数だけ、単語や表現を覚えられる、と言っても過言ではない。
堂々と、たくさん、間違えよう!旅の恥、いや、外国語の恥は成長の糧!
え、相手がいないって?留学する金がないって?環境が純日本?その問題は後述。
「私の発音練習法」
世界には、たくさんの英語方言があり、必ずしもアメリカやイギリスっぽい発音ができなくても通用する。カタカナ英語でも、何とかなる。
ただ、その国の人とより円滑に話すためには、マナーとして、最低限度の発音練習も有効だと思う。
以下、やや面倒な事も書くが、自分自身の体験からの練習方法を述べたい。
まず、自国語のクセをあぶり出し、意識して忘れること。これが結構大変。
日本語特有の発音の特性というものがある。ちょっと専門的になるが…
*子音の違い(dzとzの違いとか)
*N音の癖、鼻母音
*母音の消失
等。これについて詳説すると本が書けてしまうので、(というか、CD付きの本を書いて説明しないとわからないと思う・・・)興味ある方には別途解説したい。
あと、こんな工夫も。
1、自分の発音を録音してみよう。
最初は恥ずかしくてたまらないけど、こっそり、やってみよう!
ネイティブの発音に続いて、自分の発音を聞いてみると、やはりどこかが違う。
これをあぶりだして、直す作業を繰り返せば、必ず上達する。
2、記号的認識をやめよう
本当の発音とは、記号では表しきれないニュアンスを含む。息づかいや、頬の筋肉、舌の動き、母音と子音の発音される時間・・・
大人がなぜ、子供より発音の習得が遅いのか。
それは、知識のせいだ。
自国語の知識があり、外国語も、自国語の記号に直して聞いてしまう。カタカナ英語がそれだ。
たとえば、絵で言えば、モナリザの絵を見て、「女の人が手を重ねて微笑んでいる」と記号化してしまう。
もちろん、そうしたほうが認識にかかるエネルギーが少なくてすむ。
一方、子供は言葉を言葉のまま聞く。筋肉をどう使うかの詳細を、録画・録音するように覚えようとする。絵も、写真をとるように認識する。(だから疲れるのかもしれない・・・)
とにかく、これを意識して行う態度が大事だ。
だから、発音練習するときは、教科書を読むようにするのではなく、
ネイティブをそっくりそのままモノマネするように発音してみよう。
時に、ネイティブが教科書のスペルのように発音していない、と気づくことだってある。どうみても発音をすっ飛ばしていることもある。
しかし日本語でもそれは起きている。「こんにちは」の挨拶だって、「んちわー」ひどくなると「ちーす」などと、随分ハショッている人が多いはずだ。
そのはしょり方もバッチリマネすると、随分ネイティブらしくなる。
3、とにかく、毎日使う
ネイティブの子供は、毎日幼稚園に行って、たくさんの言葉を覚えて、みるみる話がうまくなる。
我々は、中学校から何年も学校で勉強し、お金をかけて英会話授業を受けたりするが、なかなかうまくならない。
この違いは、年齢による脳の違いだろうか?いや、それだけではあるまい。
(私の知っている先生で、還暦を越えても、新しい言語習得に挑戦・成功されている人もいる)
私は、週に何時間英語に接しているか、純粋な接触時間が大事だと思う。
学校の英語勉強は、毎日あったとしても、週10時間以内だろう。しかも、英語に接しているといっても黒板を見て、先生の日本語の授業をアクビをしながら聞くだけ。英会話スクールに通っても、週に数時間程度だろう、
一方、ネイティブは、朝から晩まで、週に100時間ぐらいどっぷりと英語に浸かっている。さらに、自分でも話し、読み、書き、怒り、喜び、英語で生きている。
この環境の違いこそが、習得結果の違いではないかと思う。
であれば、日本にいながらにしてネイティブの環境を作ってしまえば習得がより楽にできるのではないか。
たとえば、
独り言を英語で言ってみる。
通勤時間に英語のCDなどを聞く
英語で日記をつけてみる
インターネットで英語のお気に入りサイトを見る
等・・・
いずれも、面倒だし、家族や友人から「どうかしたの?」といわれそうで恥ずかしいかもしれないが、「恥」を捨ててがんばろう!
(日本人は、そもそも勤勉で優秀といわれる。もし現代が、なりふりかまわず、学習するという良い遺伝子を冷笑するような風潮となってしまったとすれば、それこそ恥ずかしいことではないか。)
更に、スポーツと同じで、毎日やらないと、言葉は忘れるものであることを認識しよう!
母国語でさえ、しばらく使わないと話せなくなる。聞く方はまず衰えないが、ふと言葉が出てこなくて「アレ」で済ませたり、簡単な漢字が書けない経験はないだろうか?
「趣味を英語で」
私は、音楽や映画が好きだから英語の歌を覚えるのは苦ではないし、字幕のない映画を見るのも苦ではない。そのおかげで覚えた単語、表現も多い。
好きなことに引っ掛けて、英語を学習すれば、効率も良いし、楽しく学習できる。また、長続きする。
今はインターネットで色々な情報が手に入る時代になった。YOUTUBEやらSKYPEやら、世界中の音声も手軽に聞ける。どんな趣味でも、それを生かした英語の学習法がきっと見つかるだろう。
止まらなくなってきた(笑) とりあえずこのへんで。]]>
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